新楮町の取り立て

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享保四年(一七一九)七月、熊谷喜兵衛は屋敷・畑を持たない弟子一五人のために、富田村の大野の畑六町を見立て楮新田町を開き、一人に屋敷一反歩と畑三反歩ずつをあてがいたいと願い出、そのとおり許可になった。品川町の南裏一帯、元第二大成小学校敷地を含め、東は釡萢堰(かまやちせき)までの地域(現市内御幸町)に新楮町が出現した。同時に紙漉町も拡張されて、六人の弟子たちの屋敷が増え一六軒になった。
 小沢村(現市内小沢)に一九町歩一万本の楮畑が開かれるなど、半紙増産事業は緒に付いた。翌五年三月、去年秋から漉き出した二〇締め(四万枚)ばかりの半紙の中から一万枚を、各組代官、楮仕立て方世話役、各町奉行に二束(四〇〇枚)ずつ見本として配布した。これを村々の者たちにみせて、楮仕立ての意欲を盛り上げようとの方策であった。また、山椿の皮の蒸し剥ぎを指導のため喜兵衛の弟子が派遣された。
 享保十年(一七二五)十二月、喜兵衛は病死、直ちに倅喜平次が跡目を継ぎ、御を勤めることになった。
 事業開始から一〇年たった享保十三年、喜平次は、御半紙五〇〇締めのほか粗皮紙・漉き直し紙など二〇〇〇締めほどを町中で売買したので、半紙の値段が下落したと述べるほどになった。しかし、元文四年(一七三九)には司取役が、楮仕立てや半紙漉き立ての御が少なくなったと事業の停滞を嘆く状態になり、司取役の欠員の補充も行われず、半紙増産事業は、二〇年にして廃止の状態になった。
 天明の大飢饉を経て寛政のころには、新楮町には人家がなく潰れ町の状態になり、新たに小給の士の住む品川町新割町が設置されることになった。また楮畑は、文化十二年(一八一六)、藩主の別荘富田御屋敷(現弘前女子厚生学院・みどり保育園)の地に収公され、姿を消した。

図134.新楮町絵図