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生産した蚕繭会所で買い取っているが、一疋作り(の中に蛹(さなぎ)が一個)のが歓迎され、買値は一升(一・八リットル)代銭一匁。二、三疋作り(一つのに蛹が二、三個入っているもの)は原則として買い取っていないが、買うにしても低い価格で扱われていた。また一疋作りでも在来の国は質の点て対象ではなく、きんこ(子)に限られていたが、津軽半島の陸奥湾に面した上磯・下磯地方では多くはきんこ繭を生産していて、しだいに他地域へも普及した。きんこ繭の種(蚕卵紙)を上方から移入して飼養者に広く配布し、将来はこのに限るとの方針を立てている。配布は直接会所で受け取るか、遠方はもちろん、近在であっても会所に来られない場合には会所から出向くとしているほか、代金は買い受けの際に前借りの金銀米穀を差し引きのうえ渡すなど、種々便宜を計る一方、統制の形をとった。
 「国日記」にはの蛹の殺虫法についても触れている。天日乾燥(太陽熱による殺虫)とその仕方、いり殺し(焙烙(ほうろく)による)は良いとされ、蒸したり熱湯をかけてはならないとしている。以上の記述は、後に触れる「蚕飼養法記(こがいようほうき)」にも記されていて特徴的なものである。
 蚕繭会所を買い取るに当たっては、仲買の中間利得を省いて生産者の利潤を図るために、村々へあらかじめ合印の木札を渡しておき、会所の役人が持参の木札と照合のうえ直接売買させ、たとえ懇意の者とか、顔見知りの会所役人であっても、合札の持参がない場合は売り渡しを禁じていた。値段については、一石(一八〇リットル)を会所へ直接売る場合は一〇匁、仲買を介する場合は六、七匁で買い取られていた。

図137.織物会所合印木札の図
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 「蚕飼養法記」は野本道玄が京都で板行した養蚕の手引き書で、元禄十五年(一七〇二)、会所に一〇〇〇部余到着している。しかし当時領内は不作で困窮状態にあったため、同十七年になりはじめて希望者に青銅一匁で頒布された。これは最古の養蚕書といわれ、の種類やふ化・給桑(きゅうそう)・上蔟(じょうぞく)・種紙・桑仕立てなど養蚕に関する多くの事項について記されている。道玄は桑園の開発や養蚕の実地指導のほか、このような指導手引き書を刊行し、養蚕の改良と普及に貢献した。
 なお、「国日記」宝永三年(一七〇六)十月七日条には、野本道玄の願いを受け、永年桑畑の取り立てに従事してきた者の家の記録として、小沢の桑園地区を野本村と称することになった事が記されている。

図138.〝野本村と称す〟の記載
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 野本道玄の出身地は山城(現京都府南部)で、宝永三年に一〇〇石加増されて計二五〇石の知遇を得ている。その後正徳四年(一七一四)十月五日、食傷にて生死危うくなり、ついに同十日に没している(「国日記」各同日条)。墓は新寺町本行寺境内にある。

図139.野本道玄の墓