「国日記」には繭の蛹の殺虫法についても触れている。天日乾燥(太陽熱による殺虫)とその仕方、いり殺し(焙烙(ほうろく)による)は良いとされ、蒸したり熱湯をかけてはならないとしている。以上の記述は、後に触れる「蚕飼養法記(こがいようほうき)」にも記されていて特徴的なものである。
蚕繭会所で繭を買い取るに当たっては、仲買の中間利得を省いて生産者の利潤を図るために、村々へあらかじめ合印の木札を渡しておき、会所の役人が持参の木札と照合のうえ直接売買させ、たとえ懇意の者とか、顔見知りの会所役人であっても、合札の持参がない場合は売り渡しを禁じていた。値段については、一石(一八〇リットル)を会所へ直接売る場合は一〇匁、仲買を介する場合は六、七匁で買い取られていた。
図137.織物会所合印木札の図
目録を見る 精細画像で見る
「蚕飼養法記」は野本道玄が京都で板行した養蚕の手引き書で、元禄十五年(一七〇二)、会所に一〇〇〇部余到着している。しかし当時領内は不作で困窮状態にあったため、同十七年になりはじめて希望者に青銅一匁で頒布された。これは最古の養蚕書といわれ、繭の種類やふ化・給桑(きゅうそう)・上蔟(じょうぞく)・種紙・桑仕立てなど養蚕に関する多くの事項について記されている。道玄は桑園の開発や養蚕の実地指導のほか、このような指導手引き書を刊行し、養蚕の改良と普及に貢献した。
なお、「国日記」宝永三年(一七〇六)十月七日条には、野本道玄の願いを受け、永年桑畑の取り立てに従事してきた者の家の記録として、小沢の桑園地区を野本村と称することになった事が記されている。
図138.〝野本村と称す〟の記載
目録を見る 精細画像で見る
野本道玄の出身地は山城(現京都府南部)で、宝永三年に一〇〇石加増されて計二五〇石の知遇を得ている。その後正徳四年(一七一四)十月五日、食傷にて生死危うくなり、ついに同十日に没している(「国日記」各同日条)。墓は新寺町本行寺境内にある。
図139.野本道玄の墓