津軽永孚(一七七三~一八二八)は家老津軽多膳の子で、幼年より漢学を山崎図書(蘭洲)に従って学び、十二、三歳のころには四書五経および大方の歴史書を読み尽くし、十四、五歳のころには談論風発、周囲の大人を驚かせ、十七歳で江戸に登り聖堂に出て、大儒と和漢の書籍の論に及び、盛名を轟かせたという。平生より「東奥に学校なく、儒者寡きを憂ひ」、学問所建設に情熱を傾け、建築の時には江戸表において寧親に建言し、数千万巻の書籍を求めしめた(「棟方氏抄録」「松田駒水筆記」『伝類』)。開校に当たり惣司(学官名国師)に就任した。
寛政六年(一七九四)八月十六日には旗奉行格の山崎図書(第八章第二節一参照)を筆頭に、寄合の唐牛大六、近習小姓の薄田多聞、同奈良岡弾司、御手廻の葛西千之助、御馬廻の工藤民助が、次いで九月一日には寄合の野呂登、同成田定次郎が学校御用懸を仰せつけられた(資料近世2No.二七四)。その折、学官員に対して各々言行を正し、「学校は教の出づる所」であることを十分自覚するように(「国日記」寛政六年八月十一日条)と、学校を教化の根本に置く姿勢が明確に示された。
津軽永孚、山崎図書以下の学校御用懸は昌平坂学問所や熊本藩校時習館(じしゅうかん)を範とし、図面や資料を求めて、計画を練り上げていった。寛政六年十月に入学準備に関する心得の触が布告された(資料近世2No.二七六)。そこでは、学校は「礼義を講じ、人道を明にするの基」で、「孝悌(こうてい)忠信の教え」の源であり、貴賤の別なく学校に入って教えを受けるのが古の道であったとして、学校創設の目的が説かれ、これまで当藩にこうした施設がなかったのは遺憾であったが、先代の遺志を継ぎ明春より学校建設に着手するので、在府・土着の諸士らはそのように心得て、子弟によく申し含め、今から学術精励に心がけておくようにと通達されている。