これより先、寛政六年(一七九四)九月十日、
学校用地が
弘前城追手門外東南の一角(現在市立図書館のある
追手門広場一帯)に定まった。当時そこに居住していた
津軽蔵人、
松浦甚五左衛門、
豊嶋勘左衛門・木村杢之助に
屋敷替えを命じて、敷地八〇〇〇坪(『史蹟名勝天然記念物調査報告書』第一輯「
学校総
構之図」によれば六五七七坪余)が
用意された(資料近世2No.二七五)。間もなく校舎の造営が始まり、
久渡寺の杉並木をはじめ、大鰐・金木・岩崎・赤石の各地から大木、大石の建築資材が調達され、夜を日についで工事が進捗(しんちょく)していった(同前No.二七五)。翌々年の寛政八年の四月には学舎の棟上式も終わり、五月には
学寮もあらかた出来上がった。校舎は南面を正門とし、平屋建の五百数十坪であった。正面中央の玄関を上がったところに畳を敷き詰めた五間四方の「格物堂」があり、ここで
釈奠(せきてん)・
養老の礼等の式典が行われた。その奥に五間に三間の講堂「善誘堂」があり、さらにその奥に
藩主の臨席の貴賓室「徳元堂」の間があった。建物全体は均整美のとれた左右(東西)対称を意識して造られており、西に十四歳以下の生徒が
孝経・
論語・詩書の素読・手習いに使
用する「養正堂」を、東に十五歳以上の生徒が
礼記(らいき)・文選(もんぜん)の素読・手習いに使
用する「志学堂」を配し、両翼をつなぐ形で史書を学習する「博習堂」、詩書・左伝・国語を学習する「審問堂」、
礼記・儀礼(ぎらい)・周易(しゅうえき)を学習する「廣業堂」、周礼(しゅらい)および法律・諸書を学習する「成器堂」が設けられ、会読から順次進んで各堂で学ぶように工夫されていた。形式美をもった巧みな
構成である。また左翼には天文・数学・
兵学を、右翼には医学・和学を学ぶ部屋が配置され、学科単位の非常によく練り上げられた教室配置になっている(「
旧弘前藩学校稽古館図」参照)。これらの教室に付けられた名称をみて気づくことは、
徂徠学的な発想に基づく人材教育を多分に意識した
構成になっているということである。また、釈奠・養老礼を実際に執り行う間を聖なる空間として中軸に据え、「儀礼」「
礼記」「周礼」の教科を重んじ、それらをより深く学ぶ部屋があつらえられているということも、大いに注目される。これは「礼楽(れいがく)」の実践を重視した
徂徠学の教育理念を生かそうとしたことと深くかかわっていよう。事実、
学校創設の総責任者であった
津軽永孚は
徂徠学に傾倒していたし、藩では釈奠・
養老の礼が
藩主の臨席のもと他藩に増して大がかりに執行された。
図163. 旧弘前藩学校稽古館図