工事と並行して学官名、各建物の名称、職制、教科科目の構成、教官人事等々にわたる制度面の検討が精力的に重ねられていった。寛政八年(一七九六)三月十五日には職制が定められ、学官名に対応する席次と俸禄が決められた(資料近世2No.二七九)。「国師」は総司の学官名であり、藩校全体を総括するのがその職掌である。「典成」(小司)は国師を補佐して、学校法規を励行せしめ、学官を指揮監督し、学校運営に当たるのがその職掌である。「学士」(学頭)はそれぞれ専門の教科をもって直接に学生に教授するのがその任である。「二教」(添学頭)は学士を補佐して、学生の教導に当たる助教授職である。「司糾」(学校目付)は学生の心身面や生活面を訓導し、学規の励行を督励し、違反者を糾弾補導するのがその任である。「学校物書頭」は庶務兼図書係長といった職務で図書の管理や事務一般を担当した。「学校勘定役」は経理主任、「学校賄方頭」は炊事夫長に相当する。
学校名や、それぞれの学舎の名称もこのころには確定していた(稽古館本の「孝経」には「寛政七年乙卯六月、津軽稽古館蔵版」の奥付があるから、遅くとも寛政七年の段階ですでに館名は内定していたであろう)。学校名「稽古館」は『尚書』「堯典」冒頭の「ここに古の帝堯を稽(かんが)ふるに」に典拠を有する(資料近世2No.二八〇)。寛政八年五月、同年六月二十三日、学官員の任命があり、総司津軽永孚を筆頭に、小司(大目付次順格)山崎図書、小司(鑓奉行格)竹内衛士、小司(物頭格)野呂登と続き、経学学頭六人(以下人名略、詳細は資料近世2No.二八五を参照)、兵学学頭五人、紀伝学頭二人、天文暦学頭一人、法律学頭一人、数学頭一人、書学頭一人、馬廻番頭一人、学校目付四人、経学添学頭五人、兵学九人添学頭、紀伝添学頭一人、天文暦学添学頭一人、学校物書頭一人等々の任命があり、ほぼ陣容も固まった。