(一)概要

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 上方(かみがた)(京都・大坂地方)と江戸の文化が、文人らの手によって全国津々浦々へ伝えられていったことはいうまでもない。ここでは弘前城下を中心として開花した和歌俳諧について、最初にその概要を記しておきたい(出典は『伝類』など)。
 和歌については、津軽における歌道振興がみられたのは三代藩主津軽信義(つがるのぶよし)の時代である。信義は宮廷歌壇の中心人物中院通茂(なかのいんみちしげ)の門人であるが、医家の匹(疋)田甫(ひきたほあん)は歌道に優れ、その信義に召し出された人物である。その後歌道は、歴代藩主の庇護を受けて多くの優れた歌人を輩出した。四代信政(のぶまさ)に召し抱えられた北川正種(きたかわまさたね)は吉川惟足(よしかわこれたり)の門下で、信政の神葬に際し惟足の名代(みょうだい)として祭司をもつとめた。八代信明(のぶはる)・九代寧親(やすちか)時代には毛内茂粛(しげよし)・高屋繁樹(たかやしげき)・斎藤規房(さいとうのりふさ)・間山祐真(まやまゆうしん)・石川雅朝(いしかわまさとも)・金則博(こんのりひろ)・笹盛良(ささもりよし)・山辺行徳(やまべゆきのり)・笹森建福(ささもりたけとみ)らが出ている。また天明五・八年(一七八五・八八)・寛政七年(一七九五)の三度にわたり来弘した菅江真澄(すがえますみ)も歌道に少なからず貢献した。一〇代信順(のぶゆき)・一一代順承(ゆきつぐ)のころには、斎藤規沖(のりおき)・猪股繁永(いのまたしげなが)・佐野正学(さのせいがく)・小山内清隆(おさないきよたか)・棟方貞敬(むなかたさだたか)・田村安満(たむらやすみつ)・三上修睢(みかみしゅうき)・長利仲聴(おさりなかあきら)らが著名である。幕末に入ると斎藤規文(さいとうのりふみ)・下沢保躬(しもさわやすみ)・小山内清俊(おさないきよとし)・斎藤敏雄(さいとうとしお)・外崎正風(とのさきしょうふう)・大道寺繁禎(だいどうじしげよし)らが中心となり、各所で歌会が催されて隆盛を極め、明治に至った。
 俳諧については、宝暦・寛政期以降に著名な人物を輩出している。宝暦(一七五一~六四)のころ、津軽屈指の俳人は津軽文卿(つがるぶんきょう)であった。その後、化政期(一八〇四~三〇)の俳壇に重きをなしたのは内海草坡(うちみそうは)であるが、門人の鶴舎有節(つるやありよ)・武田玉之(たけだたまゆき)・宮崎露牛(みやざきろぎゅう)・福井春潮(ふくいしゅんちょう)・福井蒼湖(そうこ)・今村真種(いまむらみたね)らの中で傑出していたのは三谷句仏(みたにくぶつ)で、天保年間(一八三〇~四四)の俳諧全盛時代には、文字どおり斯界第一の人物となった。