報恩寺

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天海に帰依して天台宗に改宗した信枚は、寛永八年(一六三一)に江戸で死去すると常福寺に葬られ、後に津梁院に改葬された(資料近世1No.五〇一)。しかし、「津軽一統志」は直ちに津梁院へ葬ったとし、「津軽徧覧日記」(同前No.五〇七)は、火葬にして遺骨は津梁院長勝寺へ埋葬したとする。
 信政は、父信義が明暦元年(一六五五)江戸で死去すると津梁院に葬った。国元では同三年、報恩寺を寛永寺宮門跡から寺号を受けて創建した(資料近世2No.四〇四)。以後、長勝寺に替わって報恩寺が菩提所になったため、六代信著の墓所をめぐって両寺が対立することもあった。昭和二十九年(一九五四)、弘前高校の校地拡張に伴い、歴代藩主五輪塔は承祜(つぐとみ)の遺体とともに、長勝寺境内へ移された。この時、信義の五輪塔と殉死した四人の墓石は、廟所白雲台の後方に置かれた。