廃藩置県

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明治四年(一八七一)七月十四日、弘前藩知事津軽承昭(つぐあきら)は全国二六一藩知事らと参朝、同日発せられた廃藩置県の詔(みことのり)の書付を太政官から受け取った。

写真1 津軽承昭
(明治初年)

 詔書は「曩(さき)ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ 新(あらた)ニ知藩事ヲ命名 其職ヲ奉セシム 然(しかる)ニ数百年因襲久シキ 或(あるい)ハ其名アリテ其実挙(あが)ラサル者アリ 何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ」と明治二年の版籍奉還で全国一挙の改革を狙い、近代国家としての日本のスタートを願ったが、目的が果たされなかったとし、「依テ今 更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス 是務(つとめ)テ冗ヲ去リ簡ニ就キ 有名無実ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂ヒ無(なから)シメントス」と、旧藩主をそのまま藩知事としたそれまでの体制の根本的変革を宣言した。そして藩知事は東京に留め置かれ、全員免官となった。

写真2 弘前藩知事免官の詔

 事態は早打で七月二十五日横島彦八が弘前にもたらし、翌二十六日藩士総登城となり、詔書と在京中の大参事西館融(とおる)の告知書が示達された。二十九日には権大参事杉山龍江(たつえ)が早打で弘前に帰着した。
 当時の弘前藩の指導者は次のメンバーであった。
  大参事     西館融建哲(たけあき)
          山中逸郎泰靖(やすのぶ)
  権(ごん)大参事 杉山龍江
          大道寺繁禎(しげよし)
          西館孤清(こせい)
  少参事     山野茂樹(しげき)
          佐藤清衛(きよえ)
          岩淵惟一(いいち)
          木村千別(ちわき)
          神盛苗(もりなえ)
  権少参事    都谷森(とやもり)正守
          櫻庭正彜(まさのり)
          三橋定永
          加藤盛城
 九月四日、太政官は七戸県八戸県、斗南(となみ)県、黒石県館(たて)県の五県を弘前県に合併する令達を出した。合県については、斗南県少参事広沢安任(やすとう)と八戸県大参事太田広城(ひろき)による建言が太政官に出され、大久保利通内務卿から二人に尋問があった。このときの五県とは本州陸奥国の五県で、北海道の館県(旧松前藩)は入っていなかった。もっとも、北海道と弘前のかかわりは、明治三年六月太政官から、後志国(しりべしこく)島牧郡のエカエチシから東の方シャメクシナイまでの支配を命ぜられたことに始まっている。
 いずれにせよ、合県は、一県四〇万石から四五万石を適正規模とする新政府の方針であり、また、斗南県の惨状は一刻も早い救助策を必要としていた。