しかし、こんな青森県でも中央役人が目を見張るのは、第一は、明治十一年の『日本奥地紀行』の著者イサベラ・バードにカレッジと言われた東奥義塾の存在、第二は新渡戸傳(つとう)の三本木原の開拓、第三は広沢安任の北郡谷地頭の牧牛場だった。この中で、保守勢力にとって東奥義塾の開化主義教育やキリスト教は好ましくなかった。そのため旧藩主家からの資金援助が妨げられたり、卒業した有為の若者でも官途に迎えられなかったりした。
自由民権運動は、明治七年一月十七日、野に下った前参議板垣退助、後藤象二郎らが民撰議員設立建白書を左院に提出して以来、世論が沸騰(ふっとう)していた。青森県では明治八年六月、東奥義塾の生徒で当時十七歳の工藤覚蔵(のちの外崎覚)が「君民共治の立憲制度」を要望する建言を太政大臣宛に提出した。山鹿旗之進(明治十二年卒)の回顧に、「ジョン・イングは年長者に一通りパリアメンド・ロオ(議会制度)を教えて心得させていた」とある。
明治十一年に十二歳で東奥義塾に入学した菊池武徳(たけのり)(のち代議士)は、このころの義塾の活気ある状況を次のように述べている。菊池は明治十三年春に元老院へ提出した国会開設建白書を書いた今宗蔵の部屋に世話になっていた。菊池は義塾のメンバーが啓蒙活動に力を入れていたそのころを「雑誌時代」と名づけている。大人向けは『開文雑誌』で今宗蔵主筆の活版刷り、中学部高学年生徒向けは『窓閑雑誌』で主筆は佐藤清明(きよあき)(紅緑の長兄で馬政史の権威)、中学年は『苗秀雑誌』、小学部は『童蒙雑誌』で菊池武徳も編集員の一人、学内のものは肉筆で生徒同士が回し読みをした。このほかに文学社会演説講習があって、教職員から幼年生徒まで出演した。年長者は論説及び討論、年少組は作文及び朗読、最後に優劣を決めるが、皆いずれもその日の来るのを楽しみにしていた。これらが素地をなして、東北の国会開設運動で義塾が中心となったと菊池は語る。『開文雑誌』は明治九年ごろの創刊で、『明六雑誌』や横浜の『藻しほ草』と同様に唐紙菊判大だった。関係者たちの盛んな意気込みがうかがわれる。
写真9 『開文雑誌』
明治八年から十四年まで-十二歳から十八歳まで在学した木村繁四郎(はんしろう)(高名な教育者)は「十年の戦役後、自由民権の声が世間に騒しくなり、政談演説が行われました」と回想し、アメリカのカレッジに倣って文学会を作り、隔週土曜日の午後弁論会を開き、学生は治国平天下を自らもって任じていたので、重点は政治経済論か東北振興策、地方開発論で、私塾のことゆえ何(なん)ら拘束がなく、随分(ずいぶん)盛んだった。明治十三年から十四年にわたって国会開設請願が全国を風靡したので、塾の講堂は県下有志の集会所となり、木村はまだ十七歳の少年だったが、戸主であったので国会請願に署名捺印した。高揚した彼らは山野を跋渉して雲井達雄や間山滄浪の漢詩を高吟した。