弘前の事態を混迷させたのは、保守派と意を通じ、佐々木高行らに共同会批判の情報を送りながら館山漸之進に郡長就任を強要する郷田大書記官や、帝政党の立党に積極的だった笹森儀助の表裏ある行動だった。
共同会の中心人物の一人、今宗蔵は事件のさなかの明治十四年十二月十七日その心境を次のように述べた。「右縷述(るじゅつ)(彼の前に本多が事件の推移を述べていた)の如く奇怪なる時勢となるのはもとより共同会の思索外なり、決して共同会の謀慮して生じた結果にあらざれども、あたかも馬に乗りて馳せ、半途鞍を下らんとするも得べからざる如く、今之を避くるに術なし、実に心外口惜しきことなり」。
事件が山田県令と大道寺・笹森との政治理念の食い違いに始まり、次いで中津軽郡役所一部吏員の反共同会運動、ついには山田県令と郷田大書記官の対決となって、県庁職員も二分される紛争にまでこじれたことを心外とし、保守革新の対立という遠因はさておいて、事件の直接の発端は大道寺・笹森の反覆にあると断じた。今は言う。「両人もし団結論に不服ならば集会の座において十分議論すべきはずなるに此に出でずして彼に出づるとはあゝ何等の心ぞや 余輩これを了するあたわざるなり」と憤慨した。
確かに今宗蔵が怒るのは当然である。実は、笹森儀助は、団結運動を起こすための集会が行われた十月二十八日から三週間前の十月六日、元老院議員の佐々木高行に次の手紙を書いていた。
「陳(のぶ)レバ扶桑新誌第一九二号九月二十六日発売ニ 閣下及ビ松方 山田 土方 谷 安場等主唱者トナリ 変則国会党ヲ団結セントス 云々ヲ拝承セリ 是迄モ当地ニ書生国会派数十人コレ有リ候ヘドモ一、二ノ人ヲ除ク外見ルニ足ル者ナシ 故ニ是マデハ拒絶セリ 今サイワイニ閣下等ノ義挙ヲ聞キ 忻然ノ至リニ堪ヘズ 伏テ願クハ御内定ノカドモ為サレ候ハバ コノ状達シ次第 御手数ナガラ御モラシ下サレタク 御礼カタガタ 此段御依頼ニ及ビ候」
この佐々木高行が構想した新党は土佐中正党の流れで、谷干城、土方久元、金子堅太郎、鳩山和夫らがメンバーで、シンパの一人に二度本県の県令を務めた北代正臣がいた。
笹森儀助の研究者斎藤康司は、十四年十一月十二日付の郷田兼徳書簡でも新事実を教示した。これまで笹森は十一月十四日に辞表を提出したと記録されていたが、郷田書記官は辞表提出の二日前に、郷田の本県における最初の上司だった北代正臣に笹森と大道寺の辞職のことを伝え、山田県令が自分を退けようとしているから、内務、大蔵、農商務の三卿によしなに取り計らって下さるようにと尽力を願っている。当時の政府は十四年十月十二日の政変を終えて大変動していた。内務卿は伊藤博文から松方正義、そして山田顕義に代わり、大蔵卿は大隈重信から佐野常民、そして十一月の時点では松方正義に、新設の農商務卿は西郷従道だった。
一方、山田秀典は、自分の方針は中央政府の承認のもとに進められたことであると言っている。しかし、具体的に誰に打診したかは不明である。ただ、多少ヒントを与えてくれるのは、彼の娘が伊藤博文の懐刀の一人だった金子堅太郎の妻になっていることである。山田秀典は、元熊本藩士で明治憲法作成の井上毅とよしみを通じている。郷田兼徳はこのような山田の人脈を恐れていたが、明治十五年一月六日の山田の急死は郷田の恐れを杞憂とした。郷田は山田の後を継いで県令となり、十六年十二月二十二日参事院議官補として転出する。保守派は勢いに乗って東奥義塾の覆滅を企てた。その中心になったのは原田敢、乙部敢、七戸仲行で、執拗なその運動は岩倉具視、海江田信義の津軽家干渉を呼び、ついに東奥義塾補助の年々の下賜金は廃止となり、義塾は経営に大打撃を受けた。結局、共同会は、明治十六年四、五月ごろ、榊喜洋芽の発案で解散となった。自由民権派はこの紛紜事件で保守派の大反撃を受けたが、しかし、明治十五年十月の県会半数改選の選挙で、中津軽郡は館山と菊池九郎を選出した。郷田県令は館山漸之進の当選に錯誤があったとして当選を取り消し、再選挙を行ったが、館山は再び当選した。