まず、帰田法の経過から振り返っておきたい(『新編弘前市史』通史編3(近世2)第六章第三節参照)。明治三年(一八七〇)に弘前藩は、経済的な困難に苦しむ士卒層を救済するため、土地の分与を行うこととし、明治政府に申し入れ、認められた。これによれば、士族卒は家禄の削減により、家計が苦しい者が多いので、土着を促すために、余裕がある田畑を購入し、授産の資とし、農家人口を増加させることが目的であるとしている。こうして帰田法は始まった。
田畑を売却、献納した者は三八九人であり、その内訳は士族、卒が一〇四人、町在または市在と呼ばれる農民は二八五人となっている。これを見れば、献納や売却の主体は農民であるが、士族、卒の土地も集められていたのである。
帰田法実施のために集められた土地は、水田が二七八四町歩余、畑が五〇町歩余となっている。これらの土地は、家禄一五俵以上の士族に、禄一〇〇俵につき、土地二四石の割合で分与された。土地を与えられた士族のその後については、明治十三年(一八八〇)一月の中津軽郡長笹森儀助の松方正義宛上申書が示している。この文書のうちの帰田法の結果にかかわる部分は次のようになっている。
一士族ノ方向ハ憂中ノ最モ大ナルモノニ付過日旧藩ノ総体ヲ左ニ陳ス
士族元卒総員四千三百五十六名之内、方向アル者千三百六十五名位、無方向ノ者弐千九百九十壱名
旧弘前藩減禄改正、弐百俵以下十五俵以上、壱俵ハ四斗入、弐千五百八名
旧知事公ヨリ田畑分与高、田弐千五百六町壱反壱畝五歩、畑百七町六反四畝十六歩
但田畑分与高大ナル者ハ、高四十八石相当反別五町歩内外六町歩ニ止ル
其小ナル者ハ、高三石八斗四升反別四反歩内外五反歩ニ至ルアリ
田畑分与弐千五百八名ノ内
田畑多少所有ノ者六百七十弐名位
田畑売却従来之資金ト共ニ貨殖ノ者百六十三名位
諸工職業商業ノ者百名位
合九百三十五名位
残テ
千五百七十三名
右ハ方向定マラサル者ニテ此内困難ヲ究ムル者多々アリ
田畑分与無之多少資本金ヲ賜リタル者大都千八百四十八名
内
抹畑并荒畑等多少授産ノ廉ヲ以テ分割ノ者百五十三名
各所見込ノ開墾申立分割ノ者百六名、御藩札拾五両ツゝ資本金トシテ賜リタル者千五百八十九名
〆
右之内、田畑多少従来所有分割ノ地ニ付キタル者百名位
職業并商業之者 百弐拾五名位 職
五拾名位 商
従来日雇挊(かせ)ニ馴レタル者五拾名、但無産ナリ、従来資金アッテ方向ヲ定メ居ル者五十名位、浦浦并市居住ニテ即今可也方向アル者六十名位
〆四百三拾名
引残テ千四百十八名
右者些少之公債証書ヲ疾ク売却シ困難ニ及フ者、況哉廃卒之者ニ於ヲヤ
明治十二年四月廿九日調
旧弘前藩減禄改正、弐百俵以下十五俵以上、壱俵ハ四斗入、弐千五百八名
旧知事公ヨリ田畑分与高、田弐千五百六町壱反壱畝五歩、畑百七町六反四畝十六歩
但田畑分与高大ナル者ハ、高四十八石相当反別五町歩内外六町歩ニ止ル
其小ナル者ハ、高三石八斗四升反別四反歩内外五反歩ニ至ルアリ
田畑分与弐千五百八名ノ内
田畑多少所有ノ者六百七十弐名位
田畑売却従来之資金ト共ニ貨殖ノ者百六十三名位
諸工職業商業ノ者百名位
合九百三十五名位
残テ
千五百七十三名
右ハ方向定マラサル者ニテ此内困難ヲ究ムル者多々アリ
田畑分与無之多少資本金ヲ賜リタル者大都千八百四十八名
内
抹畑并荒畑等多少授産ノ廉ヲ以テ分割ノ者百五十三名
各所見込ノ開墾申立分割ノ者百六名、御藩札拾五両ツゝ資本金トシテ賜リタル者千五百八十九名
〆
右之内、田畑多少従来所有分割ノ地ニ付キタル者百名位
職業并商業之者 百弐拾五名位 職
五拾名位 商
従来日雇挊(かせ)ニ馴レタル者五拾名、但無産ナリ、従来資金アッテ方向ヲ定メ居ル者五十名位、浦浦并市居住ニテ即今可也方向アル者六十名位
〆四百三拾名
引残テ千四百十八名
右者些少之公債証書ヲ疾ク売却シ困難ニ及フ者、況哉廃卒之者ニ於ヲヤ
明治十二年四月廿九日調
この帰田法は明治政府により追認されている。明治五年三月に、次の告諭が出された。
旧弘前藩に於て一昨秋以来、士族卒土着の議を起し、富豪の田園を買ひ、家禄高に応し、夫々分賦、追々移住、諸費等に至まで多分の金穀を発し、切実に世話致候儀、旧知事広く宇内人民の情勢を推し、深く朝廷之御旨趣に可奉副、誠精之発洩する処に、其告諭書に相見候通の次第に有之、即今本庁に於田地分賦の高並土着人員、朝廷へ御届に可及筈の処、豈図らんや追々在住を引払へ弘前へ立帰候者多分有之由相聞、右は過日御布告面、帰田法御差止め云云と有之を誤解し、或は戸籍編入の儀より種々の浮説を醸し、其実婦女子村居を厭ふの俗情に出候儀、何等の狂惑にて右様妄迷の挙動に立至候や、上は朝廷遠下の御旨趣を奉体し、旧知事刻苦の忘業を組述するを思はす、下は其身子孫後来自力に食むへき安堵の地を棄、目前の愉安に流れ候儀、甚以心得違の至、決て不相済事に候、更に右体の者、無之様布令候事
(前掲『青森県歴史』第一巻)
これによれば、明治政府の意を受けた青森県は、弘前藩士族の土着を奨励していることがわかる。士族土着は、家禄の削減が前提であり、支出の減少につながり、歓迎すべきことだったのである。この施策は、地租改正と並行して行われた秩禄処分を先取りする側面があった。