事件から四〇年後の昭和三年、昭和天皇即位の記念出版、東奥日報社『青森県総覧』の該記事はなお興奮覚めやらぬ体にて「吾人は本州最北なる僻陬(へきすう)の地に住する民なりと雖も、明治の聖代に処し苟(いやしく)も赤子(せきし)の一人として慈(いつくし)まれつゝあるものである。然るに何ぞや、それが牧民官(ぼくみんかん)なる知事より無神経なる語を以て愚弄(ぐろう)さるるに至らんとは、之れ実に聞き捨て難きことである。況(いわ)んや弘前士民の如きは是れ迄自由民権の説を主張し、国会開設の請願に、自由党の結成に、国事に奔走し来れるもの、殊に後藤伯の来遊直後のこととて意気軒昂たる場合、此の非礼暴状を見て憤激すること甚しく、将(まさ)に怒髪冠を突くの慨があった。かくて弘前市内各部有志は其の方面の道場に集合し、専ら民心の奮起高潮に力を致し、一面檄(げき)を飛ばして鍋島(なべしま)知事に対する辞職勧告に同盟せんことを求め、一部内に五名乃至六名の委員を設け、三百余名の同意を得、委員は数台の馬車に分乗して青森に向ひ、県庁に鍋島知事を訪問して辞職勧告書を突きつけた」。しかし「官憲はあく迄威圧を加ふる決心で、勧告委員等の帰弘に際し、一行の馬車に警官を配乗せしめ警戒威圧の手段を施した」と記述している。
二十一年八月二十二日に弘前各町有志の出した檄文でも「無神経云々は語を換へて云へば馬鹿と罵(ののし)りたるものに有之べく、是即ち県知事は人民を平生愚人視居るに相違なかるべし」「殊に事件の一旦官報に登るや、天下に隠れなき県下の汚辱にして、全般の栄誉を毀損したるもの豈(あに)之より甚しきものあらんや」と怒り、廻状を回した。
士族授産事業の農牧社を笹森儀助らと創立、監督となった長尾介一郎はこのとき四十二歳、谷量舎で牛乳販売も行っていた。彼は日記にこの騒動を次のように記録している。
八月二十四日 北辰堂(笹森丁)ヘ集会ノ儀申来リ退下、懸(かかりて)之ニ会ス七八十名ノ人員ニテ比日嗷々タル無神経云々ニ付県知事ヘ係リ為スコトアランコトヲ協議シ五時過帰宅
八月三十日 昨日松沢書記官弘前ヘ来レリトテ笹森町ナル北辰堂ノ書生輩二十名余其宿所ニ出、無神経云々ニ付彼是論難ニ及ヒシト云フ、今夜他ノ書生等即下町在府辺ノ書生大勢出掛ケタル様子ニテ、書記官ハ八時比黒石ニ向テ出発セリト云フ、此一件ニ付視察ニ来リシモノナルヘシ