名望人の文字は、青森県政の場合、明治八年(一八七五)十二月に「青森県会規則」を制定した際、その第一条に、県会は現在の正副区長、戸長、学区取締及び名望人を召集して議事を為すとあり、塩谷良翰参事は翌九年二月二十五日の県会の開会式で「将来施行ノ方法ヲ議セントス 今各員ノ如キ平素部民ノ信頼ヲ受ケ新シク実地ノ情状ヲ知ル」者、つまり地域において下情に通じ、人望があり、識見に富む人物を名望人とした。二月十日に公選された名望人県会議員は各大区から一人だが、現在の弘前地域(第三大区)で一番札は山田登、二番札は山崎清良だった。
だが、山田はこの年に没しており、二番札の山崎清良も差し替えになったようである。『青森県人名大事典』の山崎の経歴には明治九年県会議員とある。しかし、閉会式時の県会議員九三人の名簿に山崎の名は見当たらない。同じ第三大区のだれかと交代したのだろう。いずれにせよ、明治九年の各地域の名望人は、明治六年五月の戸長を中心として新青森県の将来を計ったときのような神官・僧侶でなく、旧藩士族の有力者だった。このとき「名望アル者ヲ公撰スル方法ハ、区戸長ヲ除クノ外、管下一般ノ市民各々之ヲシテ代議人タラシメント欲スル者ヲ、各大区ヨリ、一人ヅツヲ印封投票セシメ、区戸長ニテ取集メ、之ヲ県ニ送達シ」長官面前で開封、多数決で決定した。
山田登は旧藩の勘定奉行、用人として功があり、山崎清良も旧藩大目付で戊辰の役で活躍、藩を勤王とした功があるが、ともに弘前貫族の給禄問題の紛争当事者で、さらに明治六年十月、鰺ヶ沢などで多額の旅費を借用して上京、旧藩主家の家政のことで争い、封建復帰の建白を政府に出そうとした時代を理解しない人物たちであった。他の大区の公選名望人は一番札か二番札かのうちどちらかが出席していた。