軍都以前の弘前市

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今日、弘前市といえば弘前城など、文化・芸術・観面で注目されることが多い。しかし戦前までの弘前市は軍都と呼ばれる軍事都市だった。もちろん藩政がしかれていた時代に、弘前は弘前藩城下町として栄え、多くの武士が存在していた。当然、一定程度の軍事施設を備えていたわけである。それでも文化都市と呼ばれることが多い弘前市を、軍都弘前と呼ぶのには抵抗を感じるかもしれない。だが北東北一帯を管轄する大師団の司令部が弘前市内に設置され、弘前市民は軍隊とともに敗戦まで生活し、軍隊からの恩恵を受けていたことを知る必要がある。
 とはいえ廃藩置県後の弘前は、青森県最大の軍事都市ではなかった。近代になってからの弘前が軍事組織と無縁だったというわけではない。明治四年(一八七一)八月二十日、政府は東京・大阪・鎮西・東北に四つの鎮台を置いた。その際、東北鎮台第一分営が弘前に設けられている。兵員は旧弘前藩士から募集し、弘前城の本丸が分営とされた。その後、徐々に組織を拡大し、明治七年(一八七四)四月、徴兵令の実施によって編制を拡大し、歩兵第二番大隊となり、近代的な軍隊組織としての体裁を保った。翌年の十二月、大隊は弘前分営を撤収し青森に移った。これが後に歩兵第五連隊になるのである。大隊が青森に移ってからは、弘前と近代国家の軍事制度との関係は希薄になる。
 明治維新以後、国内最大の内乱となった西南戦争には、全国各地の士族が応援にかけつける一方、政府の命令で各地の将兵が召集され鎮圧にあたった。青森県もその例に漏れず、弘前の士族も応援に駆けつけた。けれども元来が城下町だった弘前には多数の士族が集まっており、明治政府の諸政策に対する不平・不満が集中していた。とくに士族たちは、四民平等に基づく家禄の廃止や、士族平民の別なく兵役義務を課せられることに強く反発していた。実際に戦(いくさ)に行くことが少なかったとはいえ、武力をもつことが武士の特権を象徴していたからである。平民とされた人々も、元来武力とは無縁だった階級であり、徴兵忌避など兵役を嫌悪する傾向が強かった。明治政府が進める近代国家の軍事制度は、士族の町弘前には、かえって浸透しなかったのだろう(詳細については『青森県史』資料編近現代2(青森県、二〇〇三年)の第二章「対外戦争と北奥社会」に掲載されている資料と解説を参照)。

写真74 明治後期の弘前市