写真82 凱旋を祝う第8師団御用達の商店(新寺町)
弘前市民にとっても日露戦争は身近な戦争として存在し、その被害と影響力は大きいものがあった。なんといっても黒溝台の会戦をはじめ、戦場で死と直面した兵士たちの精神には決して消えることのない深い爪痕が残った。戦争と軍隊に対する批判や非難も高まりつつあった。軍当局は、廃兵や軍人遺家族の保護と慰撫、そして授産政策を強化せざるを得なかった。この点は雪中行軍の遺家族対策と同じだった。戦争が終了した後、最も必要な措置は、軍隊に対する遺家族の不満や非難を抑制することだった。県当局も市町村長宛に軍人遺家族の保護と授産を命じ、在郷軍人からの監督を加えてもらうよう通達している。
日露戦争前後から全国的に在郷軍人会の結成が進んだ。これには日露戦争で苦しんだ軍人兵士やその遺家族の慰撫・慰安、そして保護・授産対策の意味合いもあった。雪中行軍の際に見られた地域が遺家族たちをはじめ、軍人扶助対策として費用を捻出し、人員を割いて対応するという仕組みも、日露戦争を経験して本格化するようになる。軍当局は軍人扶助対策費用に公費を投入する方針に反対し、その方策をとらなかった。しかし眼前には、日比谷焼討事件のように、国民の政府や軍に対する非難や不満が高まっていた。日清戦争以来、日露戦時中も「臥薪嘗胆」を目標に増税や苦しい生活に耐え続けていた国民を納得させるためには、戦後の対策が必要なのはいうまでもない。さしあたり軍人扶助対策が最も重要視された。けれどもそれ以外の政策としては、戦後経営策としての地方改良運動が代表的なものである。
地方改良運動は国力の増強のために、節約と勤勉を重視し、国民道徳の強化と地方社会の共同体的秩序の再編を目指したものだった。明治四十一年(一九〇八)の戊申詔書(ぼしんしょうしょ)の発布は、それを象徴するものである。軍人遺家族の慰撫・慰安、そして保護・授産を地域社会の共同体的秩序に求めたように、政府や軍当局は欧米列強に伍していくだけの国力を増強するため、その力を地域社会のなかに求めたのだった。
軍隊への批判が高まっていたことに対しても、軍当局は策を講じた。在郷軍人を通じ軍人将兵と地域の人々との接触・交流をはかった。毎年実施される機動演習にも、地域住民の参加と協力を仰ぎ、軍隊が身近に存在していることをアピールした。前述した「黒溝台会戦記念日」を定めたのもその事例である。
こうした政策と並び、軍当局は軍備拡張を進めた。青森県でも明治三十八年(一九〇五)十二月十一日、大湊要港部が設置され、北の要塞としての地位を強めた。弘前市でも同年の三月三十一日、歩兵第五二連隊が新設された。弘前市にはすでに第三一連隊があったが、日露戦後の軍備増強策として連隊を新設したわけである。「国宝師団」にふさわしい陣容を整えようとした策でもあった。
こうして弘前市は軍都としての機能をますます向上させていったのである。
写真83 日露戦争の凱旋門(和徳町)