明治四十年(一九〇七)三月、小学校令が改正された。三度目の改正である。今回の改正の要点は、これまでの義務教育尋常小学校四年を六年に延長したもので、二年の延長というとそれまでの年限の五割増となる。政府もその実現を危ぶんで、土地の実情によっては、実施期日を延期してもよいという便法を設けた。
義務教育六ヵ年の法制化は四十年三月、実施は四十一年四月と、一年間の猶予期間を置いたが、そのような配慮と宣伝が功を奏したのか、実施は当局が考えたよりも容易に、なんら支障なく行われた。
また、この小学校令改正では、高等小学校の年限も統一された。これまで高等小学校の年限は二年のもの、三年のもの、四年のものとまちまちだったが、今回の改正で二年を主体とし、三年に延長できるとした。したがって、尋常小学校六年を通算すると、八年ないし九年となるわけで、小学校教育は飛躍的に高いものとなった。
弘前における義務教育の年限延長も全国と同様、なんらの支障なくスムーズに行われた。市では年限延長に備えて、四十年七月から市内六校の四年生(最高学年)の員数を調査し、教室の増築や各校就学児童数を平均化するための通学区域の是正に取り組んだ。
しかし、何よりも父兄の了解を取りつけることが第一と、義務教育年限延長の趣旨を校長から父兄に伝えさせることにした。校長は市の命令を受け、父兄を説得した。また年限延長に伴い、授業料が五、六年生は三〇銭に引き上げになると伝えても父兄に動揺は見られなかった。和徳小学校の場合、六〇人の四年生のうち、五年生に入学を申し込んだのは九割の五四人もあって、説得の校長を驚かした。市内各校も同様の状況で義務教育年限延長は支障なく行われた。
これは、二年にわたる文部省の年限延長の宣伝が功を奏したことにもよるが、何よりも父兄が時代の推移を認識していた結果による。当時、産業不振の本県とはいえ、日露戦争勝利による北洋漁業海域の拡大、缶詰工業の創業、りんご生産の向上発展による貿易開始、弘前では電話架設や電灯会社の設置など、近代資本主義は滔々と押し寄せていた。そのような社会の推移を実感していた父兄たちは、子供の将来を思えば義務教育年限延長を素直に受け入れたのであろう。