藩祖三百年祭

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明治三十九年は藩祖津軽為信の三百年祭に当たった。あたかも日露戦争の勝利で国内が歓喜にあふれ、軍都弘前も凱旋将兵を迎えて沸き立っている時であった。また、士族にとっては、藩祖の津軽統一の偉業を偲び、その遺徳を敬仰するとともに、御家中自らの伝統と誇りに目覚めるまたとない有意義な企てでもあった。三百年祭準備委員会を設けて大道寺繁禎を会長に、以下各役員に士族の歴々を選んだが、この会を中心に商家の商業的企画も加わって、市民を挙げての盛大な行事となったのである。
 九月三日には革秀寺で、四日、五日には長勝寺でそれぞれ藩祖の大法会を執行し、十一日には高岡神社で神式祭を行って終了した。その最高潮に達した九日から十日にかけては、市内の大通りは昼夜とも人で埋められ、浅草観音仲見世通り以上の混雑と言われた。各町内の飾る山車(だし)や町標(じるし)の前は見物人の山をなし、子供は押し潰されんばかりであった。

写真124 藩祖三百年祭町内山車番附

 下土手町の某商店で十日の午前十時から一〇分間の交通を調べたところ、男四六二人・女四二〇人・子供三六九人・自転車四台・人力車六台・大八車二台・荷車一台で、この間に一二五一人の通行人があった。無論、車の種類とその数は今日とは比べるべくもないが、このほか、他町村からの人出は少なくとも五万人以上と言われ、そのため和徳町、松森町、駒越町などは荷馬車で埋まったという。
 人出で繁盛したのは何といっても飲食店が第一であった。菓子、果物屋はもちろん、豆腐、納豆まで毎朝六時には売り切れ、魚は払底、牛肉も売り切れ、卵は一個三銭五厘まで高騰した。
 目抜き通りの各町内の飾りつけは、昼は軒花・球灯・紅白の幔幕などで花のトンネルを行くがごとく、夜は球灯に火を点じ、角灯籠・色電気などで町は不夜城と化した。九日夜は花火打ち揚げ、十日昼は弘前公園本丸に高岡神社の遙拝所を設け、四の郭には余興や見世物があり、公園内は見渡す限りの人の波であった。
 かくして大成功のうちに終了したこの大祭は、弘前の明治時代最大の市民行事であった。元寺町開雲堂では、記念菓子として卍もなか・弘前おこし・津軽香楽甘(こうらくかん)などを製造販売した。また、大祭中、市内小学生には記念唱歌「弘前市民の歌」を歌わせた。これは、弘前教育会の要請により大道寺繁禎が作詞し、弘前出身の東京音楽学校教授楠美恩三郎が作曲したものである。