明治二十一年十一月には青森に『東奥日報』が創刊され、十二月六日付の第一号が、弘前では本町の支局から発売された。当時の市民はこれらによって市町村政や憲法発布・国会開設、さらには日清戦争などのニュース、政治・社会に関する知識を摂取した。そしていよいよ軍都として出発することになった三十年、東海健蔵・木村象一郎らによって弘前新聞社(~昭和十六年十二月二十五日)が創設され、五月十九日に『弘前新聞』創刊第一号が出された。次いで、三十二年十二月一日、憲政本党の機関紙『北辰日報』(明治四十四年改題『弘前毎日新聞』、~大正八年)が創刊された。
写真127 明治後期の新聞
当時の新聞の編集ぶりはどうだったか。『弘前新聞』を例にみると、創業当時の総印刷枚数は約三〇〇枚。そのうち七〇枚は社の出資者に無料配付で、代金の取れるのは二百四、五十枚程度のもの。一面、二面は中央・地方の布告や通達、東京紙からの切り抜き記事を主に、それに市政・教育・産業・衛生などに関する市内名士・論客の寄稿や談話と軍隊記事。四面は広告。そして第三面はいわゆる「三面記事」の名のとおり社会面で、それもニュースとゴシップが相半ばするがゆえに、当時の新聞には欠かせない読み物であった。また、名士・論客と目される人々の中に、師団の幹部軍人階級の人々があり、その談話が珍重されもした。
--弘前の教育はおくれている。少し大きい仕事になると、皆他県人に占領せられる。資本がないためであろう。--弘前の老人はまだ国粋保存の傾きあって困る。言葉のごときも、これを矯めようとせぬのみか、かえって誇張する。そこで青年奮起して、安心して老人をして手をひっこめさせるようにせんければいかん--などという、他県出身軍人の直言なども読まれる(『弘前新聞』明治三十九年十一月十五日付)。
写真版は、明治末に至ってもごくわずかで、記事も現在のようなホット・ニュースなど、とても望めるものではなかった。配達もまたきわめて呑気だったようで、「新聞というものは「翌日の朝には」配達し得るにもかかわらず、昼すぎはもちろん、夕方になり、時には二~三日ためて配達する。つまりこれは、配達夫を減ずるからである。また、定価通り配達しても相当利益あるにもかかわらず、毎月三銭高くとるのは、これ競争者なきための暴利である」などという、新聞販売店に対する抗議投書もあるというありさまであった。
なお、市内発行の新聞には前記の『弘前新聞』『北辰日報』のほか、『弘前日日新聞』(三十二年創刊『弘前商報』改題)や、三十三年の佐藤紅緑のしゃれた『陸羽新報』、四十年の千葉庸三の『東北旭新報』などがあったが、『弘前日日新聞』のほかはいずれも永続きしなかった。