新聞の発行

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明治七年、「新聞縦覧所」というものが弘前に開かれたが、これは新聞とはいっても、実際は多く官庁の布告や県の布達のようなものを、「下民不学」の徒や「文盲輩」に、「懇々と説き」きかせるという、町民有志の集会所のようなものであった。町民・県民の政治上の主張や生活上の意見を現在のように述べたものといえば、十年に青森で発行された『北斗新聞』を初めとし、次に十二年の『青森新聞』、十五年の『陸奥新聞』があり、雑誌としては弘前の『開文雑誌』が古い。これらの普及がどの程度のものだったのかというと、明治十二年、青森新聞社の弘前支局に勤めた山鹿元次郎が、当時の弘前町の購読者七十余軒だったのを、「せめて百軒にふやしたいと大いに努力した」と述懐していることにも、その少なさは現れているだろう(伊藤徳一編『東奥日報と明治時代』)。そのような状態から、一応現在に近い形で新聞・雑誌の類が現れ、市民の日常生活と密着し始めたのは、やはり明治も後半の二十年代以後であった。
 明治二十一年十一月には青森に『東奥日報』が創刊され、十二月六日付の第一号が、弘前では本町の支局から発売された。当時の市民はこれらによって市町村政や憲法発布・国会開設、さらには日清戦争などのニュース、政治・社会に関する知識を摂取した。そしていよいよ軍都として出発することになった三十年、東海健蔵木村象一郎らによって弘前新聞社(~昭和十六年十二月二十五日)が創設され、五月十九日に『弘前新聞』創刊第一号が出された。次いで、三十二年十二月一日、憲政本党の機関紙『北辰日報』(明治四十四年改題『弘前毎日新聞』、~大正八年)が創刊された。

写真127 明治後期の新聞

 当時の新聞の編集ぶりはどうだったか。『弘前新聞』を例にみると、創業当時の総印刷枚数は約三〇〇枚。そのうち七〇枚は社の出資者に無料配付で、代金の取れるのは二百四、五十枚程度のもの。一面、二面は中央・地方の布告や通達、東京紙からの切り抜き記事を主に、それに市政・教育・産業・衛生などに関する市内名士・論客の寄稿や談話と軍隊記事。四面は広告。そして第三面はいわゆる「三面記事」の名のとおり社会面で、それもニュースとゴシップが相半ばするがゆえに、当時の新聞には欠かせない読み物であった。また、名士・論客と目される人々の中に、師団の幹部軍人階級の人々があり、その談話が珍重されもした。
 --弘前の教育はおくれている。少し大きい仕事になると、皆他県人に占領せられる。資本がないためであろう。--弘前の老人はまだ国粋保存の傾きあって困る。言葉のごときも、これを矯めようとせぬのみか、かえって誇張する。そこで青年奮起して、安心して老人をして手をひっこめさせるようにせんければいかん--などという、他県出身軍人の直言なども読まれる(『弘前新聞』明治三十九年十一月十五日付)。
 写真版は、明治末に至ってもごくわずかで、記事も現在のようなホット・ニュースなど、とても望めるものではなかった。配達もまたきわめて呑気だったようで、「新聞というものは「翌日の朝には」配達し得るにもかかわらず、昼すぎはもちろん、夕方になり、時には二~三日ためて配達する。つまりこれは、配達夫を減ずるからである。また、定価通り配達しても相当利益あるにもかかわらず、毎月三銭高くとるのは、これ競争者なきための暴利である」などという、新聞販売店に対する抗議投書もあるというありさまであった。
 なお、市内発行の新聞には前記の『弘前新聞』『北辰日報』のほか、『弘前日日新聞』(三十二年創刊『弘前商報』改題)や、三十三年の佐藤紅緑のしゃれた『陸羽新報』、四十年の千葉庸三の『東北旭新報』などがあったが、『弘前日日新聞』のほかはいずれも永続きしなかった。