護憲を巡る動き

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大正政変(大正二年、第一次護憲運動をめぐる第三次桂内閣の倒壊)を伴った憲政擁護運動は、三田系の政治家・実業家・新聞記者を集める交詢社(こうじゅんしゃ)から発した。大正元年十二月十四日、交詢社の有志が発起人となって東京築地の精養軒に時局対策懇談会が開かれた。政友会からは尾崎行雄・岡崎邦輔など三〇人、国民党からは犬養毅ほか数人、そのほか無所属議員や新聞記者を合わせて五〇人余。弘前出身の政友会代議士菊池武徳(きくちたけのり)が発起人総代として「時局の争いは官僚対非官僚、武断派対文治派の争いであるから、非官僚および文治派と政見をおなじくするものの会合をこころみたのである」と挨拶し、会名を憲政擁護会と定めた。

写真138 菊池武徳

 十二月十九日、憲政擁護会が主催する第一回の大会は歌舞伎座で開催された。来会する者、板垣退助・尾崎行雄・岡崎邦輔・犬養毅をはじめ貴衆両院議員・新聞記者・実業家など三千余人、座長杉田定一に招かれた菊池武徳が朗読した決議案は、次のとおりである。
    決議
 閥族(ばつぞく)の横暴跋扈(おうぼうばっこ)、今や其極に達し、憲政の危機、目睫(もくしょう)の間に迫る、吾人は断乎妥協を排し、閥族政治を根絶し、以て憲政を擁護せんことを期す
 右決議す
  大正元年十二月十九日

 十二月二十四日、第三〇議会が召集された。憲政擁護運動は、議会の開会を迎えて一段と活発になった。そして、憲政擁護運動を地方に推し進めることと、議会を擁護派で占めるという具体的目標が決まった。憲政擁護運動はジャーナリスト出身の菊池武徳を旗手に天を衝(つ)く勢いであった。
 弘前には、大正二年二月二十六日、憲政擁護会の竹越與三郎、望月圭介、菊池武徳が特派され、柾木座で演説会を開き、佐藤要一が開会の辞、菊池武徳が「閥族の危機」、望月圭介が「奮起せよ立憲国民」、竹越與三郎が「東北人大に奮起の時」と題して演説を行い、喝采(かっさい)を浴びた。

写真139 柾木座内部

 また、政友会中郡分所は一月三十日総会を開き、石郷岡文吉佐藤要一石岡粕太郎が憲政擁護の演説を行い、「立憲の大義に基づき閥族官僚の打破、憲政の擁護を以て大正維新の時代に処する勇往猛進之が遂行を期す」という宣言を出した。会する者、高杉金作川村譲藤田重太郎小山内正作大高喜八郎佐藤昇一小杉佐吉岩谷吉太郎斎藤晋作ら七十余人。
 五月七日には、国民党の犬養毅一行と政友会の山本権兵衛内閣との妥協に反対して脱党し、政友倶楽部を組織した菊池武徳らの演説会があり、十月十四日弘前公園本丸で開かれた政友倶楽部の尾崎行雄、菊池武徳らの政談演説会には三五〇〇人の聴衆が集まった。この大正二年秋は天保以来と言われる大凶作の年であった。だが、弘前市政は党争の渦の中にあった。