普選運動は、大正七年(一九一八)夏の米騒動と原内閣の成立を境に二つの時期に分かれる。前期は、議会に対する請願と大衆に対する啓蒙を内容とする段階で、いかなる政派も普選を綱領・政策として掲げたものはなく、国会議員選出の有権者を一定額の納税者に限定する考え方が支配的であった。第一回総選挙の有権者は約四五万人で国民の一・一四%にすぎなかった。前述のように青森県は〇・九%であった。
日清戦争後、社会問題の解決策として普選を要求する声があがり、普通選挙期成同盟会がまず明治三十年に、中村太八郎ら名望家が唱導して長野県松本に結成された。この中村太八郎は「普選の父」と呼ばれ、同年四月、東京に社会問題研究会を結成していた。陸羯南もこの会に顔を出していた。かくて、明治三十三年の第一四議会に期成同盟会から請願書が出され、翌年普選法案が出されたが、否決となった。期成同盟会には、自由民権派の政客や弁護士、新聞記者がいたが、のちに社会主義研究会、労働組合の主要メンバーが入った。やがて『二六新報』と『万朝報』が運動を後援し、日露戦争直前には政治的急進グループと一体化し、やがて主戦・非戦両論で分裂した。戦時下、『平民新聞』は男女平等普選を主張した。戦後、院内でも、戦争を担った国民に選挙権を拡張せよとの声が上がり、政友会、憲政本党とも三十九年の第二二議会に五円案を提出する。四十一年普選案は衆院委員会を通ったが、本会議で否決、四十四年は衆議院を通過したが貴族院は一蹴、時の第二次桂内閣は普選案を社会主義運動に準ずるものとして圧迫、大正九年まで普選法案は上程されなかった。
しかし、論壇では、明治末年以来、『東洋経済新報』『中央公論』『太陽』などを舞台に吉野作造・大山郁夫ら民本主義者が普選論を唱え、全国的労働組合の友愛会も大正四年以来普選を主張するようになった。
普選運動の後期は、大正七年の米騒動と翌年早々のパリ平和会議の影響で始まる。雑誌『改造』『解放』が出版され、普選運動は大衆化した。大正八年、東京では学生団体のデモに続き、普通選挙期成同盟会の一万人デモが行われ、東京以外でも一五都市でデモ・集会が行われた。そこで、原内閣は、三円・小選挙区制案を成立させた。これは政友会の勢力を発展させる策でもあった。