青森県の社会運動の始まり

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ところで、青森県において労働問題社会問題社会運動となり、政治運動になるには五〇年の前史があった。本県における社会運動史は、明治初年から行われたキリスト教の布教に始まる。キリスト教の布教は、一種の社会啓蒙運動であった。本県の文化がキリスト教の運動に啓発されたことは甚大で、世界において、封建時代から解放直後の二、三十年の短期間に、一地方にして七十余人のキリスト教伝道者を出した例はないと言われる。その中心は弘前だった。
 そして明治三十年代に入り、中央にようやく社会主義思想が研究され、雑誌新聞等により本県にも多少の影響を与えた。明治三十五年八月、片山潜と西川二郎は社会主義宣伝のため東北遊説の旅に出、八月二十一日の夜、弘前市の蓬莱亭において社会主義学術研究会を開いた。参会者百五十余人、労働者と学生が大多数を占め、中に兵士三人がいた。翌二十二日は黒石町で演説会を芝居小屋で開いた。黒石には社会主義協会の支部があり、同町の実業新聞社が応援をし、参会者百余人だった。弘前には同志藤田がいて準備したが、藤田についてはどういう人物か定かでない。
 明治三十六年十一月十五日、黒岩涙香の『万朝報』が日露開戦に対して主戦論をとったために退社した幸徳秋水堺利彦らの社会主義者たちは週刊『平民新聞』を発刊した。青森県の『東奥日報』はそれを極めて好意的に紹介した。定価は一部三銭五厘、発行部数は三五〇〇から四五〇〇だった。明治三十七年七月十日の第三五号によれば、県内の読者は一七人であるが、名前を伏せている読者もおり、実際はこの二倍ないし三倍と言われる。名前が分かっているのは、黒石社会主義協会グループに中津軽郡裾野村須藤繁文、彼は明治三十一年から高杉村前坂で医院を開業、のち村会議員を務めた。また、豊田村の長尾三郎治、彼は地方の名望家で助役や村長を歴任していた。弘前市では、日露開戦直後アメリカから帰国した竹内兼七の名が第五八号(明治三十七年十一月三十日)に見える。投稿者に弘前市の原子基や薄田漸雲がいる。また、『万朝報』が社会の改良を目指していた時代の関係者団体の「理想団」には弘前市の工藤久三郎も加わっていた。『平民新聞』は三十八年一月に廃刊した。

写真147 週刊『平民新聞』創刊号