そして明治三十年代に入り、中央にようやく社会主義思想が研究され、雑誌新聞等により本県にも多少の影響を与えた。明治三十五年八月、片山潜と西川光二郎は社会主義宣伝のため東北遊説の旅に出、八月二十一日の夜、弘前市の蓬莱亭において社会主義学術研究会を開いた。参会者百五十余人、労働者と学生が大多数を占め、中に兵士三人がいた。翌二十二日は黒石町で演説会を芝居小屋で開いた。黒石には社会主義協会の支部があり、同町の実業新聞社が応援をし、参会者百余人だった。弘前には同志藤田がいて準備したが、藤田についてはどういう人物か定かでない。
明治三十六年十一月十五日、黒岩涙香の『万朝報』が日露開戦に対して主戦論をとったために退社した幸徳秋水、堺利彦らの社会主義者たちは週刊『平民新聞』を発刊した。青森県の『東奥日報』はそれを極めて好意的に紹介した。定価は一部三銭五厘、発行部数は三五〇〇から四五〇〇だった。明治三十七年七月十日の第三五号によれば、県内の読者は一七人であるが、名前を伏せている読者もおり、実際はこの二倍ないし三倍と言われる。名前が分かっているのは、黒石社会主義協会グループに中津軽郡裾野村須藤繁文、彼は明治三十一年から高杉村前坂で医院を開業、のち村会議員を務めた。また、豊田村の長尾三郎治、彼は地方の名望家で助役や村長を歴任していた。弘前市では、日露開戦直後アメリカから帰国した竹内兼七の名が第五八号(明治三十七年十一月三十日)に見える。投稿者に弘前市の原子基や薄田漸雲がいる。また、『万朝報』が社会の改良を目指していた時代の関係者団体の「理想団」には弘前市の工藤久三郎も加わっていた。『平民新聞』は三十八年一月に廃刊した。
写真147 週刊『平民新聞』創刊号