大逆事件のあと大正初期にかけては、社会主義運動の暗黒時代・冬の時代であった。しかし、大正九年(一九二〇)十二月九日、日本社会主義同盟が結成された。ここで労働組合運動と社会主義運動が結合し、社会主義各派が一つの組織に統一され、冬の時代が終わった。ここには一六団体が組織され、三〇人の発起人が名を連ねた。マルクス主義者、アナーキスト、自由主義小説家、学生団体、労働組合、文化思想団体と幅広い団体と思想を網羅していた。三本木町の和田巖も建設者同盟を代表して発起人になっており、青森県人と大正社会主義との接触として注目される。しかし、社会主義同盟は翌年五月解散を命ぜられた。また、非合法ながら、大正十一年七月十五日堺利彦らによって日本共産党も結成されたが、翌十二年六月の第一次共産党事件で五十余人検挙され、十三年二月解党した。
大正十二年十二月、無産政党結成の足がかりとして政治問題研究会が成立した。そして十三年六月末から具体化するため、安部磯雄、大山郁夫、賀川豊彦ら一六人が創立委員となって政治研究会を創設した。九月から機関誌『政治研究』を発行、また、早速労働講習会も開いた。講師には、黒石出身の秋田雨雀、弘前歩兵第五二連隊で反戦活動したので追放された松下芳男中尉がいた。会は急速に発展し、大正十四年四月第二回大会を開いたころは、一道三府九県に五三支部を組織していた。
この政治研究会の支部で日本一早く結成されたのは弘前である。十二年六月の東京本部の発会式には本多浩治が出席、翌七月二十八日には、政治研究会弘前支部が弘前市公会堂で正式に発足した。メンバーは、本多浩治、伊藤徳三、淡谷恒蔵、雨森卓三郎、瀬尾猛之助、鳴海久之助、成田義邦、蝦名春太郎、殿村古林、高谷慶之助、成田耕一郎、高山武雄、唐牛僚太郎。二、三日後、黒石と青森にも支部が結成され、九月には青森県連合会が黒石町で開かれた。政治研究会弘前支部は、前進の手始めとして、西津軽郡車力村の実態と、川底に沈まんとする北津軽郡武田村(のち中里町、現中泊町)長泥集落救済の演説会を開いた。建設者同盟の浅沼稲次郎も来弘した。
さらに、支部の目標は、十四年五月の市町村議会の選挙に無産派の旗を掲げて戦うことだったが、弘前市の場合はわずか七票の得票で惨敗した。しかし、西郡車力村では、大地主で貴族院議員に当選したばかりの鳴海周次郎が、農民組合の候補者に敗れて次点落選という驚天動地の事態が起きた。
大正末期から昭和初年にかけて、本県の労農運動発展に大きな役割を果たしたのは斎藤久雄(明治三六-昭和一〇 一九〇三-一九三五)である。弘前市徳田町斎藤徹の長男、弘前中学卒、ロシア文学の影響で社会主義に開眼、東洋大学に入学後は実践活動に飛び込み、東京合同労働組合専従書記となり、ときどき帰弘しては北部無産社に出入りした。大正十五年夏、地下に潜っていた日本共産党幹部渡辺政之輔の誘いに応じて入党、同年十二月山形県五色温泉で開かれた党再建秘密会議に出席、書記として重要議事に参加した。その後党中央部事務局員として活躍、藤原久の変名を用いた。昭和三年、三・一五事件で検挙されたが肺患で保釈、渡辺政之輔の遺稿を編纂、地下にあった党の中枢部で活躍、昭和七年十月治安維持法違反で懲役九年に処せられ、十年一月肺患で病没した。
斎藤は、政治研究会の弘前支部を作るのに努力し、安部磯雄や田所輝明など当時の最高指導者を弘前に連れてきた。彼を頼って雨森卓三郎(青年共産同盟委員長となり、懲役一〇年の刑となる)、内山勇、弟の斎藤勇、岡忠政、南良一(東奥日報社記者となり、従軍中に戦死)が東京に出た。雨森は五色温泉で行われた共産党再建大会に出席した。