津軽の俊英を自負している弘中生にとっては、この程度の規定はあって無きものとして映ったのではないか。また、考えようによっては、民度の低い面もまだあったのであろう。むしろ大正四年に制定された教育勅語の精神を説く「生徒心得」の方の「進取ノ気性ヲ鼓シ勤倹尚武ノ気風ヲ養フベシ」に始まる格調の高い文章が「国家ノ中堅タラント期ス」精神をよく伝えている。
大正二年七月、粟野校長は、武士道を奨励のあまり、庭球や卓球などのスポーツを軽視し、すべての娯楽を禁止した。このような校長の経営方針は生徒の反発を買い、三年十二月にはついにストライキに発展した。それは、生徒らが薪の代わりに校具を燃やした件が発端であったが、それに対する学校側の対応が厳しく、しかも一週間にもわたって調査が行われたことに抗議してのものであった。ストといっても、学校を休んで雪の公園で気勢を上げたにすぎなかったが、当時としては大事件であった。
大正後期のストライキでは、大正九年の有田洋行(サーカス団)事件と、次に掲げる同十年の石井漠・沢モリノ事件が有名である。
弘中生同盟休校 歌劇観覧禁止で
弘前中学校にては、三、四、五年生全部が、昨日、突如として同盟休校を企てたる椿事あり。
その原因を聞くに、同校にては昨年来弘の有田洋行活動写真一座の歌劇の観覧を許可しながら、有田歌劇以上の今回の石井漠、沢モリノ一座の歌劇の観覧を禁止したるは、その意を得ざることなり。これに加えて同校生徒の一部よりなる校風発揚会の会員を、棟方教諭が教唆して、歌劇興業中、弘前座前に立ち番せしめて弘中生入場の有無を検せしめたるが、これは、学校に歴とせる風紀員のあるにかかわらず、校中別に一権力を擁立せるものにて、すなわち、弘中風紀員の権能を無視せるものなりとの声、五年生に起こりしが、かねて校長の苛酷の態度に不平満々たる連中も加わりて、ますます声が高くなり、ここに五年生のストライキ気分醸成され、一同協議の結果、校長に対し、左の決議案を提げて答弁を求めたり。
△観劇の件△生徒処分の件△生徒教唆の件△校長失言の件△学校教育に関する件
しかるに校長は、これに対し、過去に属することなりとて答弁を与えざるより、五年生の大多数はあくまでも校長に迫りて、目的を遂げんと申し合わせ、かつ三、四年生徒をも語らいてストライキを起こすに至れるなり。(中略)有坂校長は、今回のストライキは近因としては、過般の歌劇にあるべきも、根深き原因は、放縦なる思想にかぶれ、自由を束縛するなど妙な不平を抱き、その不平が歌劇問題を機会に勃発せるものらしいと語り、なお、二十五日夜、父兄代表を学校に招集し、懇談するつもりなれば、たぶん、無事、解決をみるべしといえり。
弘前中学校にては、三、四、五年生全部が、昨日、突如として同盟休校を企てたる椿事あり。
その原因を聞くに、同校にては昨年来弘の有田洋行活動写真一座の歌劇の観覧を許可しながら、有田歌劇以上の今回の石井漠、沢モリノ一座の歌劇の観覧を禁止したるは、その意を得ざることなり。これに加えて同校生徒の一部よりなる校風発揚会の会員を、棟方教諭が教唆して、歌劇興業中、弘前座前に立ち番せしめて弘中生入場の有無を検せしめたるが、これは、学校に歴とせる風紀員のあるにかかわらず、校中別に一権力を擁立せるものにて、すなわち、弘中風紀員の権能を無視せるものなりとの声、五年生に起こりしが、かねて校長の苛酷の態度に不平満々たる連中も加わりて、ますます声が高くなり、ここに五年生のストライキ気分醸成され、一同協議の結果、校長に対し、左の決議案を提げて答弁を求めたり。
△観劇の件△生徒処分の件△生徒教唆の件△校長失言の件△学校教育に関する件
しかるに校長は、これに対し、過去に属することなりとて答弁を与えざるより、五年生の大多数はあくまでも校長に迫りて、目的を遂げんと申し合わせ、かつ三、四年生徒をも語らいてストライキを起こすに至れるなり。(中略)有坂校長は、今回のストライキは近因としては、過般の歌劇にあるべきも、根深き原因は、放縦なる思想にかぶれ、自由を束縛するなど妙な不平を抱き、その不平が歌劇問題を機会に勃発せるものらしいと語り、なお、二十五日夜、父兄代表を学校に招集し、懇談するつもりなれば、たぶん、無事、解決をみるべしといえり。
大正十年一月二十六日の『東奥日報』はこのように伝えている。二十七日に解決はみた。処分者は出なかったが、前年の六月には、八戸中学校で、生徒の講演会(弁論大会の意)で、「先生に対する風刺的演説」が原因で停学の処分があり、それに抗議して校長排斥運動に発展するという騒ぎがあったばかりであった。当時の意気盛んな中学生たちの反骨精神を語り伝えている。
このとき五年生であった斎藤吉彦(民俗学者、詩人)が、その遺稿集『那妣久祁牟里』の「鶏肋雑記」のなかに「中学生の卑歌」と題した一文を残している。
大正九年或ハ十年歟(か)我等弘前中学校五年生たりし時、校風発揚委員の件あり、遂に同盟休校を成し、殊に亡き恩師棟方黙斎先生には一方ならぬ御心労をかけ、今にして思へば、後悔の種ならぬぞ一つも莫(な)き。当時、いづこより伝はりけん。生徒は左の如き卑歌をよく唱へ居たり。校長ァ死んだとて誰ァ泣ぐものか、お寺のかぐぢで隠坊ァ泣ぐ、デンガラデンガラ
新しい大正期の空気のなかで質実剛健の弘中の校風にも微妙な変化が起こりつつあったが、開校以来初の音楽会が開かれたり、詩歌・論説にもこの傾向は現れるようになっていた。