県立工業学校

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東奥義塾の廃校を条件に弘前に開校した県立工業学校は、大正九年に義塾が再興するに及んで、下白銀町の校舎を返還し、新たな校地を求めなければならなかった。候補地としては、時敏小学校の隣地、富田、馬屋町の三ヵ所が挙げられたが、選ばれたのは馬屋町の現在地、当時は藤田謙一所有の旧高倉屋敷と呼ばれていた土地であった。
 県立工業学校の校舎は、大正十一年十二月に竣工し、落成式が挙行された。このとき同窓会から落成記念にモーターサイレンが寄贈され、始業・終業の時を告げることになった。それまで弘前市では正午になると、通称ドンと呼ばれた午砲で知らせていたが、翌年にそれを廃してサイレンに代わったのには、この影響もあった。
 新校舎が完成し、施設や設備に充実の度を加えた工業学校では、いよいよ待望の五年制への移行に向けて働きかけることになり、大正十四年(一九二五)一月には文部省から認可された。さらに翌年には学則が改められ、定員四〇〇人の本科(建築科、機械科、木材工芸科、土木科)と若干名の選科の編制となった。このとき、土木科が新しく設置されたが、これは時代の要請に従ったのである。
 工業学校では明治四十五年に東京へ修学旅行をしている。これまでは十和田湖へ行っているが、弘前市内の中等学校で東京へ修学旅行をしたのは工業学校が早く一番乗りであった。
 また、工業学校では、生徒の製作品展覧会を開催して人気があった。これは『弘工六十年史』によれば、「観覧人のおもなものは各官衙長、軍人、実業家、商人、各種学校生徒等にして弘前市居住人はもちろん、市外数里を隔てたる地より来観せるものあり、観覧人の総数壱万弐千余名に及べけり」とある。これは必ずしも大げさな記述ではなく、市価より安く即売もしたので、市民ばかりでなく、各層からの支持を得ていたことがわかる。当時としては驚異的な観客動員数であった。
 校友会は明治四十三年(一九一〇)十二月にはできたが、学芸部・運動部・事務部からなり、明治四十五年の校友会誌にはその活動状況が記されている。学芸部のなかでは講演部が最も活発で、ほとんど一ヵ月おきに講演大会を開いている。弁論の盛んな時世で、工業学校も例外ではなかった。一回の講演会に少なくとも十数人から二十数人の弁士が雄弁をふるったという。運動部には柔道剣道庭球があり、大正十二年からようやく陸上競技部ができた。大正時代はあまり振るわなかったが、昭和以降は華々しい活躍をみせる。

写真188 県立工業学校