市域の整備と町村合併

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相次ぐ大火で、遊郭移転問題など、市街地の整備が焦点となった。だが昭和期になって弘前市や他の町村全体を襲ったのは、市域全体の構造枠を決める町村合併問題であろう。これは大正十年(一九二一)四月公布の郡制廃止法と、それに伴う郡役所の廃止に端を発している。もちろん深刻な町村財政の緩和、税制改正、行政事務の簡素化、地租委譲問題など、行政機構の進展上で生じる諸問題を解決するために生じたものでもあった。とはいえ内務省が各地方長官に通牒を発し、町村組合を作らせて合併機運を促進させるなど、今回の合併には政府の意思が強くはたらいていた。
 弘前市でもいくつかの合併事例があった。その一つが清水村との合併である。昭和三年(一九二八)四月一日、清水村の富田・紙漉両部落の弘前市への合併が実現した。両部落の合併第八師団設置当時からの長い歴史があった。第八師団自体が巨大な組織である以上、地域の統一整理が必然となったからである。しかし師団設置当時の住民は、政治的にも経済的にも非常な打撃を蒙るとして合併に猛反対し、結果的に合併は実現しなかった。
 爾来(じらい)、郡市合併問題弘前駅周辺の和徳村合併と併せ、歴代市長の課題となっていた。こ合併問題が解決機運を見せたのは、郡役所の廃止と郡制の廃止であり、昭和初期の金融恐慌がもたらした財政難だった。清水村富田の住民が熱心に合併運動を促進した結果、松下賢之進市長の時代に具体案が完成して合併が成立した。この合併の最大の特徴は、第八師団司令部と歩兵第五二連隊、弘前高等学校(現弘前大学文京キャンパス)が、合併によって名実ともに弘前市の地域に編入されたことである。弘前市は軍都弘前として名をはせたが、実際に第八師団司令部が市域に編入されたのは、意外にも昭和期に入ってからなのである。

写真2 第12代市長松下賢之進

 清水村との合併実現に対し『弘前新聞』は「大弘前市民たれ」と主張し、「従来の部落的観念を一掃し大弘前市民として和衷協同以て弘前市の発展に努力せられたい」と述べている。しかし町村合併は「部落的観念」から、深刻な地域間抗争を生むなど、一筋縄でいかない問題をはらんでいた。現在は弘前市域となっている旧町村も、その思惑は複雑であり、決してスムーズに合併がなされたわけではなかった。昭和戦前期の合併問題でもっとも重要であり紛糾したのは、和徳村合併であろう。