事変後、各地の師団から部隊が出征し、第八師団管下の各連隊にも出征が命じられた。十一月十三日、弘前部隊にも動員令が下った。混成第四旅団の出征であり、旅団長は鈴木美通少将だった。市民は郷土部隊の出征を盛大に歓送した。すでに軍隊と地域の結びつきが強固になっていた弘前市だが、満州事変の勃発と郷土部隊の出征により、軍都の市民は沸きに沸いた。
写真14 柳条湖事件勃発時の『弘前新聞』
出征部隊を歓送した市民は、他の地域と同様に慰問品を募集し、出征部隊には慰問袋を作って送付した。出征家族を慰問する活動が盛んに行われ、『東奥日報』や『弘前新聞』は郷土部隊の活躍を逐一報じた。当時最大のメディアであった新聞は、満州事変勃発以後、さまざまなイベントを講じて人々の戦争熱を煽った。『朝日新聞』『毎日新聞』などの中央紙は航空機を活用して大画報満載の号外記事を連載した。『東奥日報』や『弘前新聞』は中央紙ほどの活動こそできなかったが、青森県ないし弘前市の郷土部隊の活躍に関しては、微に入り細を穿(うが)つ報道を続け地元民を喜ばせた。
昭和七年三月一日、満州事変の最大目的の一つだった満州国が成立した。しかし満州での戦闘が終了したわけではなかった。三月十二日、第八師団の主力部隊が出動することになった。このときの師団長は西義一中将である。師団主力が出征するということで、『東奥日報』をはじめ新聞は大々的にその偉功をたたえ、郷土師団の派遣を盛大に祝った。愛国婦人会や国防婦人会などの慰問活動も盛んに行われた。
その一方で四月以降、郷土部隊の戦死者が遺骨となって運び込まれるようになった。戦死者の遺骨は英霊扱いされ、市内で手厚く葬られた。戦死者を英霊扱いとし公的機関で手厚く葬ることは、市の行政当局の重要な役割とされた。戦死者と遺家族の救済は、雪中行軍遭難事件の際と同様、国民の軍や戦争に対する非難や攻撃を避けるための重要な任務だった。国民を戦争に駆り立てる必要不可欠の事業でもあった。
写真15 名古屋駅前通過の郷土部隊
満州事変勃発以降の第八師団の戦闘で、有名なものに熱河(ねっか)侵攻作戦がある。満州事変の最大の目的は満州国の成立にあった。だが満州国をうち立てた関東軍は、熱河省の侵攻に踏み切った。熱河省は奉天省と河北省の中間に位置し、その帰属は政治的に非常に重要だった。それだけでなく熱河省はアヘンが特産品であり、そこから得られる財源は関東軍にとって非常に魅力あるものだった。
熱河侵攻は昭和八年一月一日、山海関守備隊長の謀略による日中両軍の戦闘から始まった。この戦闘で第八師団は兵力をつぎ込み、三日山海関を占領した。これを契機に武藤信義関東軍司令官は熱河侵攻の作戦を命じ、二月十七日には第八師団の主力も熱河に進撃を開始した。山海関(さんかいかん)の戦闘に限らず、熱河侵攻は当初想定されていた以上の戦闘となり、関東軍は数多くの兵力を動員し、長城線ラインを突破した。しかし中国軍の反撃は根強く、関東軍は各地で苦戦を強いられ、数多くの死傷者を出した。
弘前市民は第八師団管下の各連隊や部隊の出征や凱旋(がいせん)に対し、日章旗を振りかざして歓送した。昭和八年五月三十一日、塘沽(タンクー)停戦協定か締結され、満州事変以降の軍事行動が一段落すると、中国に派兵されていた各地の部隊は次々と凱旋した。第八師団の各部隊は、一部が七月に凱旋を果たしたが、師団主力が凱旋したのは昭和九年になってからだった。塘沽停戦協定が結ばれたとはいえ、関東軍の中国侵略が終わったわけではなかったからである。中国各地の抗日軍の活動や、当時「匪(ひ)賊」と呼ばれたゲリラたちの活動を防御するためにも、軍隊の駐留が必要だったのである。
第八師団主力の凱旋に当たって、市民は凱旋歌を歌って盛大に歓迎した。凱旋歌は東奥日報社が講じたメディアイベントの一つで、同社が昭和九年三月に発刊した『満州事変第八師団戦功史』に歌が掲載されている。赤平武雄の作詞で戸山学校が作曲している。歌詞を見ると「祖国日本の生命線、満州の空戦雲はれて」とある。松岡洋右をはじめ当時日本で盛んに「満蒙は日本の生命線」と鼓吹されたことを引用しているのが興味深い。この歌は五番まであるが、三番には「陸奥健児の武勲も高く」とあった。第八師団将兵が常に青森県の師団であることが、ここでも強調されている。