軍人遺家族の援護対策

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八甲田雪中行軍遭難事件の際に遺家族の慰撫・慰安の結果、彼らの怒りや不満は抑えられ、大不祥事が殉国行為へと昇華される経緯があった。日中戦争以後の戦時体制下でも、出征軍人や戦死傷者の遺家族に対する援護政策が重要視された。動員、出征、徴発だけでは市民の戦争協力は十分でなかった。政府は人々を動員する一方、銃後の生活、とくに遺家族への配慮と保障を行うよう地方当局に通達した。弘前市にも県を通じて通達があった。ここでも具体的な軍人援護対策は国家(軍)ではなく、市町村当局に任された。軍人遺家族への授産や慰問、生活保護(生活改善)のほか、傷痍軍人への職業斡旋、戦死者の市葬など、総じて戦死者英霊化と遺家族への一定限度の生活保障、負傷者の就職斡旋などが重視された。
 弘前市では日中戦争勃発後、南京陥落から間もない昭和十二年十二月二十四日に、旅順陸軍病院で公病死した一等兵の市葬を実施した。葬儀委員長は石郷岡市長が当たり、葬儀の庶務や式場の接待・受付などの事務も、市当局や在郷軍人会各分会当局が担当し、長勝寺で実施している。公的機関による戦死者の供養は、何も日中戦争期から始まったわけではない。古くは雪中行軍遭難事件の凍死者を政府が弔魂祭と銘打って執り行うなど、全国各地でも類似の形態が多数あった。だが一兵卒のために市の幹部や有力者が関わる葬儀には、強い政治性が込められていた。戦死を公的機関が名誉ある戦死と位置づけ、英霊扱いすることで戦争に対する批判を抑制し、遺家族を慰撫する役割を果たしたわけである。
 一家の働き手である成人男性を奪われる遺族の悲しみと怒りは計り知れない。それは当然、戦争を遂行する政府や軍当局への非難につながりかねない。反戦・厭戦の防御は戦争を遂行する当局にとって至上命題だった。戦死者英霊とすることは、戦争に出征し戦場で死ぬことを正当化し、英雄化する心情を生み出す装置だった。そして戦死者雪中行軍遭難事件後藤伍長のように英霊となり軍神扱いされるのである。
 出征家族にとって成人男性を失うことは、生活維持の観点からも不安だった。華々しい出征祝いをするだけでは家族の不安は不満になりかねない。そのため昭和十三年三月十四日、県は応召農山漁村の遺家族に授産施設の利用を奨励した。市町村当局や農会産業組合、漁業組合などの団体に授産設備を作らせ、遺家族に無償貸付けさせる事業で、仕事内容は技術的にも簡易で応召家族の従業に適するものとされた。具体的に奨励された仕事内容には、藁工品、炭俵、養兎、りんご袋製作など、副業施設による生活補助的な仕事が多かった。りんご袋は、りんごを特産とする弘前市が積極的に奨励し、養兎も青森県当局が積極的に推進していた。
 出征軍人の名誉を確保し、遺家族の授産施設を整備するほかにも、県当局では遺家族に対する相談施設を考案している。昭和十三年七月、弘前地区軍人援護相談所が設置され、事務所が弘前警察署内に置かれた。所長は警察署長が当たり、相談委員の委員長を兼ねた。副委員長以下、数人の委員も警察署員が担当するなど、相談所自体が警察署員で構成されているところが特徴だった。

写真24 戦時中の一番町(突き当たりが弘前警察署

 遺家族の生活が不安定になり、人心が悪化するとの観点から、遺家族の生活改善が課題となった。その結果、青森県と恩賜財団軍人援護会青森県支部が主催し、青森、弘前、八戸三市の銃後奉公会が後援して遺家族生活改善講習会が開催された。講習科目は洋裁と割烹のほか、僧侶・神官による訓話が精神教育として取り込まれた。洋裁や割烹は女性教育の主軸だったが、訓話などで僧侶・神官による精神教育が重視されるなど、銃後生活の徹底は常に精神性が重視された。
 召集解除や除隊となった帰郷軍人の経験を、銃後の生活に具現させるための援護指導も事業化された。昭和十六年五月二十一日、県は各市町村当局や銃後奉公会に対し、帰郷軍人の前線体験を銃後の生活に具現させる指示を発した。戦地での活躍を銃後生活に紹介することで、軍国少年を育成するなど、さまざまな効果が期待されたのだろう。