小作争議と地主制

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第二次大戦前のわが国農村において大きな桎梏(しっこく)となっていたのは、寄生地主と多数の小作農民の存在であった。加えて昭和初期には農業恐慌と冷害凶作が農業・農民問題を一段と深刻化させていた。特に、大正中期以降、主として西日本地域において高額小作料の減額をめぐって地主と小作間の争議が頻発し、示威行動を伴った農民運動が高揚を見せ、これが農村の大きな社会問題となった。
 小作人を中心とする農民らは、大正十一年(一九二二)、「土地を農民へ」、「小作料の永久減額」をスローガンに掲げ、日本農民組合(日農)を結成した。ここに明治以来の地主制度を否定する本格的な農民運動の産声があがった。しかし、昭和三年(一九二八)の「三・一五事件」で打撃を受けた日農は、同年五月全国農民組合(全農)を再結成し、農民組織の再組織化を図らざるを得なかった。

写真43 第13回全国農民組合大会で活動を報告する岩淵謙一(昭和9年)

 しかし、昭和期に入ると小作農民の状況、特に東北・北海道地方の農民が置かれた状況は、度重なる凶作の影響もあって悪化し、そのため生活をかけた地主との小作料減免交渉が行われた。東北地方の小作争議を西南地方と比べたときの特徴は、小規模であること、小作料減免と並んで小作地の「取り上げ」など、小作権関係をめぐるものが多かったことにある。すなわち地主の中には温情的な者もいたが、恐慌と冷害凶作により小作人と同じ境遇に置かれた小規模地主の場合、土地の「取り上げ」、返還を要求せざるを得ない者も多く、地主小作間の対立は険悪になる場合もしばしば見られた(前掲『復刻版 恐慌下の東北農村』)。
 青森県における小作農民組合は、大正十三年(一九二四)九月、西津軽郡車力村に岩淵謙一、謙二郎の兄弟によって結成されたのが最初であり、当時の労働組合運動とも共闘して全県に広がっていった(青森県『青森県労働運動史』第二巻、一九七一年)。一般に東北地方で小作争議が頻発するようになったのは、前述のように昭和期に入ってからであり、冷害凶作による小作貧農の窮乏的な懇願運動的性格が強かったといえる。中津軽郡においても昭和初期、清水村下湯口の石岡彦一らが中心になり、全農支部の結成に奔走しているが、組織された農民運動に至るまでにはならなかった(「全農支部結成準備会通信」、資料近・現代2No.二二五)。
 中津軽郡においては「地主」といっても「寄生地主」や五〇町歩以上の大地主は少なく、小作争議の多くは在村の中小地主と小作間の耕作条件(耕作の継続、小作料の減額)をめぐる争いであった。この調停には小作官や小作調停委員が中に入り裁定を下した。この当時の代表的な小作争議の調停に地主の「土地取り上げ」があった。昭和九年(一九三四)、新和村(現弘前市新和)において、「新和村大字三和」の小作人が「苹果畑九反五畝」を大正十二年(一九ニ三)より十五ヵ年の約束で土地を借り受け、昭和八年(一九三三)まで小作料も継続して払っていたが、昭和九年に入り「突然、土地の返還を要求」されたことを不満として、「小作継続ノ調停」を村の小作調停委員会に申し入れている。同委員会での調停結果は、若干の小作料の引き上げと小作人の耕作継続を認めている。この後、このような土地の取り上げと小作契約継続の調停が各地で頻発し、農村の窮乏状態が深まるにつれ、土地をめぐる地主・小作間の対立は強まっていった(「調停申立書」、同前No.二二六)。
 このような地主的土地所有の矛盾は準戦時体制以降にいっそう拡大し、自作農創設の必要性が社会的に要請されるようになった。