市の対応策と市民の反応

297 ~ 299 / 965ページ
 進駐軍を迎え入れる弘前市の対応はどうだったのだろうか。進駐軍対策の基本は知事を中心とする県レベルで対応したが、市町村行政の実質的な対応は、進駐軍への便宜をはかり、同時に市民の恐怖感を抑えることにあった。進駐軍兵士が物品を略奪・窃盗するのは、その多くが家族などに持ち帰るための、いわゆる土産物や記念品であることが多かった。進駐軍兵士が記念品などを譲渡してもらおうと依頼しても、当時の日本人には言葉が通じない。そのため進駐軍に略奪された印象をもったのだろう。
進駐軍の不法行為対策として土産物屋を設置することも、すでに政府では講じていた。市では九月の半ば以降、市内の各所に土産物屋を設置するよう命じている。郷土人形、目屋人形、錦石細工、あけび蔓(つる)細工、竹細工、挽物、悪戸焼、津軽塗下駄のほかに、りんご加工品を用意した土産店が用意された。弘前警察署では進駐部隊への便宜をはかるために、弘前地方の地図を作製し、二十二日には公会堂に市内各団体長や町内会長などを集めて、進駐軍についての各種注意事項を説明し、全市民に徹底するよう依頼している。
 このほかにも弘前地区の進駐軍慰安所として、「角は宮川」デパートが接収された。資本金五〇万円で現在の建物を若干改築し、四階をダンスホール、三階をカフェー、二階を土産品売り場、一階を一般売り場とした。この計画は県の保安課の斡旋で業者に呼びかけて実現する。弘前市は建物疎開で一部の建物が破壊されたとはいえ、空襲に遭っていないだけに数多くの建物が残っていたのである。
 慰安施設のなかに特殊慰安施設というものがある。通称RAAと呼ばれている。Recrcation and Amusement Associationの頭文字をとって称していたものである。進駐軍兵士から日本の女性を守るために作られた慰安施設で、売買春業を兼ねた施設でもあった。この施設は国や地方自治体が率先して設置を推進していた点で注目されよう。だがこの施設を要望していた日本の女性たちが多かったのも事実である。自らを守るために一部の女性を犠牲にする心情が、男性はもちろん、女性たちにもあった。それほど当初は進駐軍に対する恐怖感が日本人の間で強かったのである。
 青森県でも特殊慰安施設を考究していた。九月二十四日、県当局は県下主要な業者の代表一五人を警察部に招致して、資本金二〇〇万円の社団法人青森県特殊慰安施設協会を設立し、資金斡旋、施設資材、従業員確保、保健衛生など、各種の資金融通をすることになった。従来の料理店を進駐軍向けに改造し、内容を拡充するもので、いずれは協会直営のキャバレーやダンスホールなどもつくることとなった。協会は理事長田崎岩男のもとに、主として進駐軍駐屯地域で慰安施設を営みたい希望者に対して資金を貸し出し、施設建築の資材を斡旋することになった。
 国や県、市当局の執拗な対策と市民の心配をよそに、進駐軍はおおかた平和裡に進駐した。九月二十六日当初は、アメリカ軍兵士が弘前市に進駐すると、映画館などの入場者数が激減し、普段の一割程度になったという。それだけ市民は進駐軍を警戒していたのである。けれども進駐軍が秩序正しいとわかると、映画館の入場者数も増え始める。十月に入ってからは五割程度にまで回復した。各映画館には、当時「案内ガール」と呼ばれた女性係員が夜間も勤務していた。当初は彼女らを進駐軍から守るために、映画館への勤務を控えさせていた。それが観客動員数にも大きく影響していたのである。進駐軍の大多数は若い男性の集合体だった。「鬼畜米英」と信じ込まされ、日本人とはまったく違う人種で、身体も大きく頑強な彼らを見た当時の女性たちの恐怖感は相当なものがあったに違いない。
 連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは進駐軍全体に厳重な統制をしき、秩序の確保に努めていた。だが個々の兵士が必ずしも命令を忠実に履行したわけではない。各師団・部隊ごとにさまざまな命令が出されたが、青森進駐軍司令官も神社寺院などに英文の標札を立てるなど、さまざまな対応をとっていた。異文化に対する興味本位と無理解から、神社寺院などの施設が破壊されることを恐れてのことである(資料近・現代2 No.三四五)。

写真101 青森進駐軍司令官通知