合併前後の観光対策

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市町村合併前後、観光地弘前の名声は徐々に高まってきていた。現に修学旅行生が毎年弘前に来るようになり、「もはや戦後ではない」雰囲気は、日本国民全体の観光熱の高まりからも明らかとなった。戦後の弘前は学都弘前で出発し、観光都市弘前としての発展を目指し諸事業に着手する。文化財保護の試み、広報活動の展開、イベントの重視などは、その一環である。だが肝心の観光客受け入れ態勢はどうだったのだろうか。
 現実的には弘前市当局や市民が、観光都市の実現に向けて積極的な事業を推進していたとは言いがたい。観光客の受け入れ態勢については、市当局も市民もまだ不十分だった。とくに市の玄関口である駅前観光案内所がないことは、観光都市として致命的な欠陥であった。『陸奥新報』の社説でも「観光地としての受入態勢を整え、多くの外来客を誘致して、市経済の伸張と市勢の振興に役立たせなければならぬということは市是としてもよいほどになっている」と主張し、できるだけ市費をかけ機構整備をする必要性があると説いている。昭和二十九年(一九五四)段階で、市には独立した観光課もなく観光客受け入れ対策も確立されていなかったのである。
 合併前の弘前市の観光政策は、まだまだ確立されていない段階だった。外来観光客からもあまり印象がよくなかった。第一に道路が悪く街が汚ない。史跡名勝地の手洗所設備が不十分で不潔。土産物も質が悪く値段が高い。加えて駅前に案内所がなくて観光しづらいなど、さまざまな否定的意見が上がっていた。観光地態勢が不備であったことは、市当局も認めざるを得なかった。総じて合併前の弘前市は、市当局や市民の観光客受け入れ態勢がまだまだ不十分だったのである。

写真229 弘前市観光案内所馬車(昭和33年)