四 民謡

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 現在民謡と呼ばれる分野の音楽は、俚謡(りよう)などと呼ばれ、地方色をもった庶民の歌であった。広義の民俗芸能に含まれるが、ここでは独立項目を立てて述べる。記録に残されることは少なく、菅江真澄(すがえますみ)(宝暦四-文政一二 一七五四-一八二九)等の紀行文や『鄙のひとふし』に歌詞や歌われる状況などが記されている程度である。明和九年(一七八一)四月に「ほうづき程の血のなみだ」、永禄六年(一七七七)には「四反五反の大豆畑」「角から角まで丸焼け」の歌を藩で禁じた記録がある。
 民謡は士族階級の音楽ではなく、庶民の音楽であり、町民よりは農民・漁民の音楽であった。明治以降の学校教育で、新たな日本音楽教育がいかにあるべきかを思索した伊沢修二(嘉永四-大正六 一八五一-一九一七)は、明治十一年、文部大臣に提出した上申書で、「我が国の音楽には雅俗の二種ある、俗とは歌詞が卑猥(ひわい)であり淫行(いんこう)に導き、公衆の前で歌うことができず、学課として施してはならない」としたのである。雅楽西洋音楽を折衷して作られた『小学唱歌集』は明治十五年に発行されて音楽教育が始められ、明治二十年に開設された音楽学校は洋楽へと傾斜していった。
 日清戦争が始まる明治二十七年(一八九四)には《勇敢なる水兵》などが歌われ、「音楽学校は西洋音楽の奴隷にあらざるべく、日本音楽の仇敵にもあらざるべし」などの意見も出てくる。大和田建樹(おおわだたけき)(安政四-明治四二 一八五七-一九一〇)が明治三十一年に編集した『日本歌謡類聚』には、青森県の民謡の歌詞が小山内東七郎(おさないとうしちろう)、河合ちよ子の報告によって記されている。こうした時代の潮流の中で、弘前市若党町生まれの竹内運平(たけうちうんぺい)(翆泉(すいせん))(明治一四-昭和二〇 一八八一-一九四五)は俗楽を肯定する立場に立ち、明治三十九年に『俗謡研究之趣味』(草稿)を著した。二〇〇に近い民謡の歌詞を収録し、俗楽研究(現在の音楽学)の方法論を示し、民謡が学問上に資料を提供するばかりでなく、倫理の教化、趣味として歌っても有益な音楽であると、当時としては異色の論説を唱えたのである。「平家琵琶」の項目で述べた館山漸之進音楽教育における邦楽の軽視、洋楽偏重の風潮に対する抗議を明治天皇に上奏し、明治四十年に邦楽調査のための「邦楽調査掛(ほうかくちょうさかかり)」を設置させるきっかけをつくった。
 昭和三十年代に民謡ブームが起こり、民謡コンクールでは技巧と体力を要する津軽民謡が好んで取り上げられるようになり、全国的に愛好されるようになっていった。歌手として成田雲竹(なりたうんちく)(武蔵)(明治二一-昭和四九 一八八八-一九七四)、今重造(こんじゅうぞう)、浅利みき高橋つや福士りつなどが活躍した。現代の様相は、セミプロ的な歌手により洗練され、民謡酒場やステージで奏される音楽様式へと変容してきている。代表的な曲は《津軽じょんから節》《津軽よされ節》《津軽小原節(おはらぶし)》を「津軽の三つもの」とし、《津軽あいや節》《津軽三下がり》を付して「津軽の五大民謡」と呼ばれている。《津軽山唄》も名曲として知られる。かつて盆踊りでも歌われた口説節は近年歌われることがない。その土地の心中話とかゴシップは口説節に乗せて流布させずとも、新聞等で知ることができるようになったためであろう。