国際交流の歩み

 明治32年(1899)度慶応義塾にラグビーが始まって以来、慶応はクラーク先生の手ほどきを受け、明治34年(1901)度に横浜のYCACに初試合を挑んだ。明治、大正の時代は慶応がYCACとKRACを良い目標としてきた。日本のラグビー発祥の歴史がすでに国際交流史となっているのだが、ここでは昭和に入って勃興してきた日本の各チームが、海外チームの胸を借りてチーム力を向上させてきた歴史を見ることにする。
第1期 大正14年(1925)度~昭和17年(1942)度
 日本のチームが初めて海外遠征をしたのは、大正14年(1925)12月の慶応義塾大学による上海遠征であった。次いで昭和2年(1927)7月から9月にかけて、早稲田大学が豪州遠征を敢行した。同年9月に同志社大学が大連、旅順への満州遠征、12月に明治大学が上海遠征と続く。昭和3年(1928)1月には上海駐屯ウエールズ連隊が関東に、昭和4年(1929)2月に天津駐屯フランス軍が関西に来訪するなど、交流が始まってくる。第1期のハイライトは、昭和5年(1930)9月に、日本代表カナダ遠征を敢行、6勝1分の好成績を収めたこと、また返礼として昭和7年(1932)1月にカナダが訪日、5勝2敗で帰国して、日本国内にラグビーを知らしめるのに多大の貢献を果たしたことである。
 この時代は慶大早大同大京大、立大、関西大東大など大学チームが満州、上海、朝鮮などを訪れているが、満州鉄道、朝鮮鉄道などにそれぞれの大学OBが勤務して、強力チームを形成していたことが交流を盛んにさせた要因であった。
 この中にあって昭和9年(1934)年1月に、豪州学生選抜が来日して4勝3敗、昭和11年(1936)1月にNZ大学選抜が来日、6勝1分で帰国した。初めてラグビー強国の一流チームを迎えて戦う機会を得たことは、この時代の大きなエポックメーキングとなった。
 戦前の日本代表のテストマッチはカナダ(うちひとつはBC州代表)3、豪州学生、NZ大学各2の計7試合である。
第2期 昭和26年(1951)度~昭和35年(1960)度
 戦後の国際交流は昭和27年(1952)1月、香港代表の来日で2勝1分1敗(1敗は日本在住全外人)であった。当時高校1年生だった私は、城北中学時代の担任だった増田靖夫先生(東京教育大OB)がロックで出場したので、関東代表が香港代表と6−6で引き分けた熱戦を夢中で声援していた。「SOの和田[政雄、明大OB]はうまいなあ、ワンバウンドのパスでも取っちゃうんだよね」「斎藤[尞、明大OB]や橋本[晋一、早大]はデッカイなあ」と呼び捨てにしていた。まさか先輩として親しくさせていただくときが来るとも知らずに。
 次いで3月には、在鮮NZ部隊が来日して5勝1敗、日本代表は3−19で敗れたが、緒戦の九州代表が22−3で金星を挙げた。
 第2期のハイライトは昭和27年(1952)9月のオックスフォード大学、翌28年(1953)9月のケンブリッジ大学の来日である。戦争の影響で昭和18年から25年まで7シーズンもの間、国際交流を絶たれた日本にとって、オ大とケ大の来日はラグビー復活の証しであった。
 日本はオ大と7戦、ケ大と8戦、計15試合に全敗したが、ゼロからの出発に手ごたえを感じさせてくれた価値ある敗戦となった。戦術面だけでなく、ルールもレフリングも、フェアプレー、ジェントルマンシップ、どれをとってもまぶしいほどの輝きを見せて両大学は帰国した。
 昭和31年(1956)2月の豪州学生選抜、昭和33年(1958)2月のNZオールブラックス・コルツ、昭和34年(1959)2月のカナダBC代表ら強豪チームが相次いで来日した。なかでもNZオールブラックス・コルツの来日は、ウィルソン・ウィナレー、コリン・ミーズ、パット・ウォルシュら、ラグビーファンがいまでも記憶にとどめている豪華メンバーが、強烈な印象を残して席巻していった。私は全早大日本学生代表、日本代表の2試合に出場、多くの経験と生涯の友を得た。
 昭和34年(1959)9月、オ・ケ大連合が来日した。このときも日本チームは7戦して全敗した。私は緒戦の関東・関西連合チーム、第4戦の全早大と最終戦の日本代表に出場する栄誉に浴した。当時レベルの高かったオ・ケ大に健闘が精一杯という結果だったが、高校生のときまぶしく眺めていたチームと戦った感激はひとしおであった。こんな気持ちだから勝てないのも当然だった気がする。
 日本からは昭和35年(1960)9月に、全盛期を迎えていた八幡製鉄カナダ遠征を行い、4勝2敗の成績をあげて、戦後の日本ラグビー界で海外遠征の先鞭を務めている。
『資料編』の国際交流試合一覧表を見ると、第2期では軍隊のチームとの交流が多い。在日英連邦軍とか極東英連邦軍、呉駐留NZ部隊、マレー駐留英国陸海空軍らに加えて、豪州空母や巡洋艦、駆逐艦などが寄港する際に試合をする機会が多かった。外国人の胸を借りて国際舞台へ進出するチャンスをうかがう日本は、各国軍隊との交流で経験を重ねていった。
第3期 昭和36年(1961)度~昭和45年(1970)度
 国際交流が急速に進んだ時期である。昭和37年(1962)5月、八幡製鉄が豪州・NZへ本格的な遠征を行い、6勝4敗の成績を収めた。同年9月にはフランス学生選抜が来日した。昭和38年(1963)4月、日本代表が戦後初のカナダ遠征を行い4勝1敗の成績を収めた。昭和39年(1964)12月、NZカンタベリー大学来日、昭和41年(1966)年3月同志社大学のNZ・豪州遠征と続き、昭和42年(1967)2月、SHクリス・レイドロー、SOアール・カートンの現役オールブラックスが妙技を見せ、9戦全勝と圧倒していったNZ大学選抜の来日を経て、この期のハイライト、オールブラックス・ジュニアを破って世界を驚かせる日本代表NZ遠征へとつなげた。大西鐵之祐監督率いる日本代表が快挙を成し遂げた試合は『観戦記』の項に譲る。
 またこの期で特筆されることは、アジア大会が発足したことである。昭和44年(1969)3月、東京秩父宮ラグビー場を舞台に、日本韓国香港台湾タイの5ヵ国総当たりで行われ、日本はエース坂田好弘の逆転トライで香港に24−22で辛勝し、第1回大会の優勝を果たしている。
 昭和45年(1970)3月には、NZ大学選抜カナダBC代表が来日、日本代表との三国対抗を行うなど、日本のラグビーは海外との交流により、飛躍的な発展を遂げた。
写真・図表
オールブラックス・ジュニアを破り、世界に日本ラグビーを発信した昭和43年(1968)の日本代表。接近プレーで果敢に攻めた。写真はCTB横井章
第4期 昭和46年(1971)度~昭和55年(1980)度
 第4期はこの期のハイライトから始まった。昭和46年(1971)9月に来日したイングランド代表に、日本代表は3−6と敗れはしたが、日本ラグビー史の伝説となったノートライゲームの死闘を演じたのである。誇り高いラグビールーツ国イングランドの代表チームが、負けても不思議ではない試合を、東洋の島国日本がやってのけたのだから。
 この快挙により、日本代表は昭和48年(1973)9月、イングランドウエールズフランスの各国にフル・インビテーション[全額招聘国負担]の栄誉ある招待を受けた。2勝9敗と成績は振るわなかったが、日本の健闘ぶりは各地で高い評価を受けた。
 昭和49年(1974)4月には第2回のNZ遠征を行い、5勝1分5敗の成績をあげた。この遠征ではNZジュニアには敗れたが、最終戦のNZ大学選抜に24−21で初勝利を収め評価を得た。
 昭和50年(1975)7月の豪州遠征では4勝5敗、同年9月には当時世界最強といわれたウエールズ代表が、マービン・デービス主将、ガレス・エドワーズ、フィル・ベネット、JPRウィリアムズらのビッグネームがフル代表で来日、日本のファンにその妙技を披露してくれた。昭和51年(1976)5月に日本代表はメンバーを一新、若いメンバーでカナダ遠征を行ったが、私の未熟な采配もあって1勝4敗の成績、同年9月の英国・イタリア遠征には斎藤尞監督、私はコーチとして参加、高田司を主将に、原進、寺井敏雄、井澤義明、今里良三らをカムバックさせた。成績は3勝7敗であった。
 昭和52年(1977)9月にスコットランド代表が、53年(1978)9月にはフランス代表が初来日し、それぞれ74−9、55−16と日本代表を圧倒していった。
 昭和54年(1979)5月には再度来日した、ビル・ビューモント主将率いるイングランドに、横井久監督、森重隆主将の日本代表が19−21で逆転負けして金星を逃した。
 昭和55年(1980)10月にオランダフランス遠征を行ったが、オランダ代表には13−15の惜敗、フランス代表には3−23[内容は評価すべき大健闘]で敗れた。
 アジア大会では第3回から第7回まですべて全勝優勝を続け、日本がアジア最強国であることを示した。
 第4期にはそのほか、全明大NZ・豪州遠征が2回、東京三洋アメリカカナダ遠征、全慶大豪州遠征、日本A代表NZ遠征、日本U23代表NZ遠征などがあり、その他の来日チームに、豪州代表コルツ、NZカンタベリー大学、NZ大学選抜2回、カナダBC大学、ケンブリッジ大学、豪州学生選抜などなどがあった。その他の遠征・来日での国際交流[国際交流全試合一覧参照]も盛んだった。
 日本の大勢の選手、役員らが多彩な国際交流を通じて、ラグビーの技術向上、交流のあり方、ホスピタリティの大切さなど学ぶことができた有意な10年間だった。しかし日本代表としては、世界への道が開かれたチャンスを生かしきれず、後退を余儀なくされた悔やまれる時期であった。
第5期 昭和56年(1981)度~平成2年(1990)度
 この期の国際交流は全新日鉄のソ連遠征から始まった。旧ソ連は強豪チームであったが、国際交流のチャンスが少なく、ラグビー事情も詳しく知られていなかった。全新日鉄はソ連で行われた『モスクワ国際大会』に出場して旧ソ連、旧ユーゴスラビア、ポーランドなど日本と交流がなかった国々と対戦した。八幡製鉄時代から、新日鉄が日本のパイオニアとして国際交流に貢献してきた功績は大きい。
 日本代表は昭和57年(1982)4月、来日のカナダ代表とのテストマッチに2連勝したが、5月のNZ遠征では3勝1分6敗、NZ大学選抜とのテストマッチに2連敗した。同年9月に来日したNZ大学選抜とのテストマッチで31−15と雪辱し面目を保った。また同年11月にシンガポールで行われた第8回アジア大会では、決勝で韓国に9−12で敗れ、初めて王座を明け渡した。昭和58年(1983)10月、ウエールズから10年ぶりにフルインビテーションの招聘を受けた際、日本協会の金野専務理事は、ここ数年日本代表が不振なことから「惨敗すればウエールズユニオンに多大の迷惑をかける」と、監督の私に遠征を辞退するように迫った。私は「無様な試合をしたら辞任します。行かせてください」と頑張った。金野さんの発言は日本代表を鼓舞するためであったが、私は腹を決めて遠征に出発した。結果は2勝1分2敗、ウエールズとのテストマッチは深夜にテレビ東京で日本に放映され、24−29で敗れたが、松尾雄治主将率いる日本代表が、ウエールズを追い詰めた健闘は高く評価された。昭和58年(1984)9月にフランス代表が来日し日本はテストマッチに連敗した。
 第1回ラグビーワールドカップが1987年に開催されることが決まり、日本代表は宮地克実監督のもとでチーム強化を図り、昭和60年(1985)5月、来日のアイルランド代表と2テストに健闘、同年10月には岡仁詩監督のもとでフランス遠征を試みたが、テストマッチで0−50、0−52で全敗、遠征も6戦全敗に終わった。昭和61年(1986)5月には、宮地監督でアメリカカナダ遠征4勝1分3敗、9月には再び岡監督でイングランドスコットランド遠征に2勝6敗、11月の第10回アジア大会では、宮地監督で決勝に韓国に敗れ、前回取り戻したチャンピオンの座を再び失うなど苦しい道のりを歩んだ。
 昭和62年(1987)5月、NZと豪州を舞台に繰り広げられた第1回のラグビーワールドカップに日本代表は宮地監督、水谷眞コーチの布陣で臨みイングランドには大敗したが、豪州には23−42と健闘、アメリカにはゴールキックの不調で18−21と痛い痛い星を落とした。日本が岡、宮地の両監督の交代起用で臨まざるを得なかったのは、アマチュアとしてこれ以上の時間を割けなかったことによるものだ。第1回RWCを機に、ラグビー界は一気にプロ化が加速することになり、日本協会もアマプロ問題に揺れ動く時代を迎えた。
 ワールドカップ終了後、日本代表の再出発を目指して、日本協会は英国研修を終えた私を監督に再指名した。10月に世界チャンピオンとなったNZオールブラックスが来日、日本代表は0−74、4−106とテストマッチに無残な結果を残した。この世界最強チームでRWCのイタリア戦で100m独走、大会のヒーローとなったジョン・カーワンが、現在HCとして日本代表を指導してくれていることは、歴史のめぐり合わせであろうか。
 メンバーを一新して臨んだ私の強化策は失敗に終わり、昭和63年(1988)11月19日、香港での第11回アジア大会決勝で韓国に13−17で敗れ監督を辞任した。後任には宿沢広朗が就任、平成1年(1989)5月28日、来日のスコットランド代表を28−24で破る金星を挙げてくれた。平成2年(1990)4月、日本代表西サモアには敗れたが、トンガ韓国に快勝して見事に第2回ワールドカップへの出場権を手にする。波乱万丈の第5期であった。
 その他の国際交流は『国際交流全試合一覧』を見てほしい。こんなにたくさんのチームが国際交流を重ねる時代が来るとは、亡くなられた明治・大正時代の先輩たちも想像されなかったに違いない。
改めて世界への道を開いてくれた多くの先輩たちに感謝申し上げたい。
第6期 平成3年(1991)度~平成12年(2000)度
 日本代表は平成3年(1991)4月のアメリカカナダ遠征に2勝3敗、9月に来日の香港代表を下して第2回ワールドカップに臨んだ。スコットランドアイルランドに敗れたが、ジンバブエに52−8と大勝して初の1勝をあげた。ワールドカップではいまだに唯一の勝利である。早く2勝目といわず3勝目4勝目をあげてほしい。平成4年(1992)度は小藪修監督が就任して、第13回アジア大会で優勝を果たす。平成5年(1993)5月にアルゼンチン遠征でテストマッチ2敗、惜しい星を落とす。9月のウエールズ遠征では3勝3敗だが、テストには5−55で完敗した。平成6年(1994)5月には来日のフィジー代表に2連勝して気勢を挙げ、10月の第14回アジア大会にも連覇した。平成7年(1995)4月に招聘したルーマニアに1勝1敗で、5月の第3回ワールドカップ(南アフリカ)に臨んだ。日本代表ウエールズに10−57、アイルランドに28−50、そしてNZオールブラックスに17−145とRWC最多失点の記録を作ってしまった。
 平成8年(1996)日本代表監督に山本巌が就任、5月からの第1回パシフィック・リム選手権に2勝4敗、11月台北の第15回アジア大会に優勝した。平成9年(1997)に、日本協会は代表監督に平尾誠二を指名、5月からの第2回パシフィック・リム選手権では1勝5敗と振るわなかった。平成10年(1998)の第3回パシフィック・リム選手権は2勝4敗、9月来日のアルゼンチン代表に44−29で勝ち、第16回シンガポールアジア大会で優勝した。同年12月日本代表が初参加したタイの第13回アジア競技会では、決勝で韓国に敗れ銀メダルにとどまった。平成11年(1999)5月からの第4回パシフィック・リム選手権に4勝1敗で初優勝を果たし、ワールドカップに期待を抱かせた。10月にウエールズを主催国として、新装成ったミレニアム・スタジアムでわれた第4回RWCでは、日本代表サモアに9−43、ウエールズに15−64、アルゼンチンに12−33で敗れた。
 ワールドカップ終了後も日本代表の強化を任された平尾監督は、メンバーを一新して臨んだが平成12年(2000)5月の第5回パシフィック・リム選手権に5戦全敗、青森での第17回アジア大会には優勝したが、11月のフランスアイルランド遠征でアイルランドU25に13−83、アイルランド代表に9−78と大敗を喫した。「ワールドカップでの健闘を評価して招聘したのに、若いメンバーに入れ替えて大敗を喫した」ことに国際的な批判が生じた。平尾監督が辞意を表したが、同じ過ちを犯したことのある私は、彼に適切なアドバイスができなかったことに悔いを残している。
 平成10年(1998)から平成19年(2007)にわたって、日英大学対抗[オックスフォード大学とケンブリッジ大学を交互に招聘して、毎年日本の大学トップと交流戦を行った、読売新聞社後援]では、前半期には負けていた日本の各大学が、後半期に勝てるようになり、大学レベルの強化と相互交流に寄与してくれた。
 この10年間は、3度のラグビーワールドカップに出場し、過密なスケジュールとプロアマ問題に振り回されて、制度疲労に陥った苦難の第6期であった。
第7期 平成13年(2001)度~平成22年(2010)度
 ミレニアム新時代に突入して、日本協会は新監督に向井昭吾を任命した。平成13年(2001)6月に迎えたウエールズ戦に日本代表は10−64、30−53で連敗した。このときの対戦でサントリーが45−41で勝利を収めた。単独チームがIRB8ヵ国の代表を倒した大金星であると特記しておきたい。7月には4ヵ国でトーナメントとなったパシフィック・選手権でカナダに勝って3位、平成14年(2002)10月、2回目の参加となった第14回アジア競技会では、34−45で韓国に敗れ再び銀メダル、11月にタイで開かれた第18回アジア大会には、スケジュール過密のためやむなく日本選抜を送ったが、これも決勝で20−22で韓国に敗れた。平成15年(2003)5月にはスーパーパワーズ選手権でアメリカロシアに敗れ精彩がなかった。7月にはイングランド代表が来日、日本代表は10−37、20−55で敗れた。
 10月に第5回RWCが豪州で開催された。日本代表の試合は3試合がタウンズビル、1試合がゴスフォードで行われた。日本は4試合とも善戦した。スコットランドに11−32、フランスに29−51、フィジーに13−41、アメリカに26−39。4戦全敗で何をいっているんだというお叱りもあろう。私とてアメリカに勝てなかったことに不満は残る。しかしそれ以上に「本舞台でやっとラグビーらしい試合ができた」という思いが強い。スコットランド戦が21点差、フランス戦が22点差、フィジー戦が28点差、アメリカ戦が13点差、いずれも30点差以内である。これがラグビーの試合だと心底思う。過去のRWCでは必ず30点差以上、ときには50点差以上の試合もあった。これでは出場する資格がないといわれても仕方がない。
 平成16年(2004)、日本代表監督に萩本光威が就任する。5月に韓国と19−19の引き分けでスタートした萩本ジャパンは、スーパーパワーズ選手権でロシアカナダに勝って初優勝、順調な滑り出しを見せた。7月に来日したイタリアには19−32で敗れた。11月の欧州遠征でスコットランドに8−100、ウエールズに0−98と惨敗を喫した。「Japanよ。またか」とマスコミに厳しく追求された。日本協会は平成15年(2003)度にトップリーグを発足させたが、まだ強化に貢献するに至らず、選手のケガなどもあり、メンバー選考が思うに任せず、萩本監督の責任だけではなかった。平成17年(2005)4月の南米遠征でもウルグアイに18−24、アルゼンチンに36−68と連敗、向上の気配が見えない。5月のアジア3国対抗には香港韓国に勝ったが、第3回のスーパーパワーズ選手権ではルーマニアに23−16で勝ち、カナダに10−15で競り負けた。6月にアイルランド代表を迎えて、12−44、18−47と連敗した。
 日本協会は萩本をジュニア監督に、新HCにはフランスのジャン・ピエール・エリサルドと契約した。エリサルドは11月来日のスペインに44−29で快勝、平成18年(2006)4月のアジア3国対抗にアラビアンガルフと韓国に勝ち、5月には来日のグルジアに32−7とテストマッチ4連勝を果たしたが、6月来日のイタリアとIRBパシフィック・ネーションズカップに全敗した。11月のRWC予選、アジア3国対抗を前に、フランスのクラブチームコーチを兼任するというエリサルドの申し入れを、日本協会は拒否して契約を解除した。太田治GMがHCを兼務して香港韓国に勝ってWCの切符を手にした。日本協会はジョン・カーワンにHC就任を要請、快諾を得て平成19年(2007)度を迎えた。カーワンHCはIRBパシフィック・ネーションズカップは1勝4敗だったが、強化に手ごたえを感じ、フランスの第6回RWCに出場した。まだ記憶に新しいフランス大会では、豪州戦を第2チームで戦い大敗して問題を残したが、ベストメンバーで望んだフィジー戦では31−35、カナダ戦では12−12と引き分けて日本の存在を示した。日本協会は第6回RWC後もカーワンに続投を要請、日本代表は平成22年(2010)のパシフィック・ネーションズカップで、フィジーには8−22で敗れたが、強敵のサモアに31−23、トンガに26−23で快勝し、世界ランキングを12位に上げた。
 日本代表は第7回RWC2011NZ大会に期待を持たせてくれる。