今井宗薰名は兼久、一に帶刀左衞門、(今井家由緖書、養壽寺今井家系圖、寬政重修諸家譜卷第二百二十四)久胤と稱し、(今井氏七石碑銘幷系圖、今井家由緖書)單丁齋と號した。(玉仲遺文)【宗久の嫡男】法名を宗薰と云ひ、今井宗久の嫡男である。(今井氏七石碑銘幷系圖)【茶湯の達人】茶湯を父に學んで奧儀を極め、豐臣秀吉に仕へて近侍となつた。大德寺の古溪宗陳に參禪し、俗弟子となり、(茶人系傳全集)父の遺言によつて遺領の内千二百石を返還した。(今井家先祖書、養壽今井家系圖)秀吉の薨後、德川家康の寵遇を受け、慶長四年正月命を受けて、伊達政宗の女を家康の男上總介忠輝に媒介し、秀吉の遺言に悖るの故を以て五奉行より糺明を受け、將に誅伐せられんとしたが、(寬政重修諸家譜卷第二百二十四)宗薰及び其子彦八郞(後宗呑)は家康に從はざる旨の誓詞を出し、高野山に隱退した。(養壽寺今井家系圖)【領知】五年關ヶ原の役には東軍に從ふて功あり、亂後、攝津住吉郡内に於て三百石を加へられ、總て千三百石を領し、河、泉兩國の代官となつた。(寬政重修諸家譜卷第二百二十四、養壽寺今井家系圖)舊住吉郡、現大阪府泉北郡五箇莊村大字花田に屋敷址がある。(堺市史蹟志料)【邸址】【大阪の役拘禁】十九年大阪の役起るに及び、宗薰は關東に通ずるの嫌疑を受け、大阪方に於ては之を惡むこと甚だしく、堺の邸宅は襲はれ、遂に父子共に捕へられて大阪城内に禁錮された。【家財茶器の沒收】此時家財茶器等は多く沒收するところとなつた。(紹鷗傳來道具譯書留寫今井彦右衞門家之覺書)織田長益其茶湯に通ずるの故を以て愁訴して釋され、【高野山遁竄】高野山に逃れ、一心院谷福生院に寓して時機を窺ふた。(今井彦右衞門家之覺書、紀伊續風土記)後父子共に二條城に至り、家康に謁して軍に從ふた(駿府記、大坂御陣覺書、武德編年集成七十)寬永四年四月十一日享年七十六歳を以て卒した。【墓所】向泉寺に葬り、(寬政重修諸家譜卷第二百二十四)法號を興國院天外宗薰居士といふ。(桃青寺過去帳)甲斐町東三丁養壽寺に現存する宗薰の石碑は、單に天外宗薰と鐫刻するのみである。
【子孫】宗薰の子平左衞門兼隆は將軍秀忠及び家光に奉仕し、(養壽寺今井家系圖、今井氏七碑銘幷系圖)寬永四年父の遺跡を繼ぎ、幕領を支配し、堺に住した。(寬政重修諸家譜卷第二百二十四)其後裔今井彦次郞は維新後堺市内の取締を命ぜられ、其子正武氏は東京市外南品川宿鎗ヶ崎に現住して居る。