【本在家上之町に住む】
谷正安は通稱を長右衞門と稱し、本在家上之町に住した。
長左衞門時安の男、妻は堀田藏人吉正の女、名はヲキク、(法號は祥林院殿悅窓妙喜信女、寬永二十年一月八日享年五十二歳で歿した)(
谷家系圖)父子共に
茶湯に達し、其名を知られた。(數寄者名匠集)【新寺開創の意圖】正安深く
澤庵宗彭に歸依し、一寺を創建して開山に招請せんと欲した。然し新寺の創剏は極めて困難なる事情があつたが、偶々
海會寺元和の兵燹に罹り、復興に苦めるを察し、
澤庵と謀り、之を
南宗寺内に移轉せしめ、其遺址に新寺を建立して、舊寺再興の形式に則らんと欲し、元和元年八月表面判金二十枚、(實は銀八貫六百目)を以て、
海會寺と寺地交換を約し、同四年に至り、
南宗寺の境域中へ同寺を復興せしめた。(
宿松山海會禪寺略記)正安に一男、五女があつたが、二女は既に夭し、又寬永元年十一月男長次郞(法名華屋宗榮)の夭折に遇ひ、追福の爲に一日も早く新寺の造營に着手せんとし、(
祥雲寺略記)同二年九月彌々資金を調達し、宗怡、幽庵及び
長慶寺宗策連の替地受取證を取り、(永代渡申
海會寺屋敷之事)功を剏め、同五年に至つて竣功した。(
東海和尚紀年錄)【
祥雲寺創剏】卽ち
祥雲寺である。同十一年九月
澤庵を請して落慶式を擧げ、乞ふて第一祖とした。【法諱と道號】同十六年剃髮して、法諱を宗印といひ、道號を海岸と稱した。(
祥雲寺略記)正保元年二月六日享年五十六歳を以て歿し、
祥雲寺に葬つた。(家谷系圖、
祥雲寺略記)【遺書に
祥雲寺の所置を詳述す】正安生前寬永十八年四月遺書を認めて、寺僧に送り、同寺寺域の廣袤を明かにし、寺領たる家屋敷の地子銀は、永代寺領たるべき事、又同寺にある軸錄を擧げ、之を寺有とすべき事、親類緣者たりと雖、寺内に居住せざる事、それ等の者を同寺の住職たらしめざる事、萬事
澤庵の法度書に違背せざる事、親族たりと雖、寺院に對して我執の振舞をせざる事等數項を記した。又同年六月
澤庵に銀百枚を贈つて生前の好意を謝し、且
祥雲寺の維持、後住、什物等に關して、意見を縷述した遺書を送つた。尚又同二十年七月遺族及び親族並に使用人に對する、詳細綿密を極めた遺書を認め、死後の紛糾なからしめた。(
祥雲寺文書)【
圓悟禪師の墨蹟】宗臨から傳へた家什
圓悟の墨蹟は、父
時安の時、
伊達政宗の懇望により、慶長年中
春屋宗園と古田織部正重勝とに謀り、遂に之を半
截して二幅とし、此時織部正の注意によりて裱裝を改め、(
祥雲寺略記)發語以下四百一字を遺し、次の文四百九十二字の分を政宗に貽つた。(數寄者名匠集、
全堺詳志卷之下)政宗之を德とし、每年米千石を下附せんとしたが、家富めるを以て之を辭退した。正安に至り、小堀政一の好みによつて、復裱裝を改め、正安
祥雲寺を創建するに及び、終に之を同寺に寄進した。(
祥雲寺略記)此墨蹟は其後、文化元年三月
松平不昧の希望により、其他の什物數點と共に、金千兩の寄附を得て、之を同寺より松平家に讓り、每歳國米三十俵宛を、永世寄附せらるゝことになつた。(
祥雲寺略記、
祥雲寺讓狀)
第五十八圖版 谷宗印畫像