祥雲寺は號を龍谷山、俗稱松の寺、【位置】大町東三丁字一丁寺町にある大德寺の子院で、寺格一等地に列してゐる。【沿革】德川時代の初、豪商谷正安澤庵宗彭に歸依して、一寺を創建せんとし、偶々元和兵燹の後、澤庵南宗寺復興の際、海會寺を南宗寺内に移轉せしめ、址地に新寺創立の計畫を立て、寬永二年二月正安は宗怡、幽庵及び長慶寺宗策連署の換地請取書を取つた。右敷地は南北三十三間、東への入北の端にて四十八間、南の端にて二十六間の境域であつた。(宿松山海會禪寺略記、本末雜亂改正記、祥雲寺略記)正安卽ち直に建築の工を起し、【寛永の落慶】同五年に至る間、方丈、庫裏、玄關、文庫、衆寮、浴室、東司等を落慶し、瑞泉寺と號し、澤庵を請して開山の始祖とした。偶々澤庵同六年七月罪を得て配流せられたので、同十一年赦免歸山を待ち、九月落慶供養の式を擧げた。(祥雲寺略記)寬永九年瑞泉寺を祥雲菴と改め同十六年更に祥雲寺と稱した。塔頭冷泉菴は正保三年正安の女、伊丹正重の室である月仙守桂尼の創立で、雲外座元を請して第一世とし、元祿十一年九月默傳院と改號した。江岩菴は寬文十一年月仙守桂尼の妹江岩宗清尼の建設で、大有宗爲首座を請して第一世とし、八月落慶し、妙玄菴は慈溪宗順首座の創立、自ら其始祖となり、同年八月落成した。又臥龍窟は寬永十五年に、鐘樓卽ち惺世樓は同十八年に、法王堂は同十九年に何れも造營せられた。(祥雲寺略記)梵鐘は寬文元年十月月仙尼の寄進改鑄によるものであつたが、鐘鳴嗄るゝを以て、天和三年七月之を新鑄したものである。(祥雲寺新舊鐘銘)方丈及び浴室の扁額は澤庵和尚、昭堂の額寂然塔は近衞基熈、庫裡の香積界は天祐和尚、小方丈の臥龍窟は支那人簞獻籙、法王堂及び鐘樓惺世樓、釣鼇は天倫和尚、玄關一玄の額は支那人黃元震の筆である。又方丈の繪畫三面は狩野安信、書院は同興甫、臥龍窟は同秀信の彩筆にかゝる。(祥雲寺略記)【谷正安後事を遺書す】開基正安(法號海岸宗印)は歿前遺書を裁し、澤庵に對しては後住の任意選擇を以てし、寺僧中へは什物並に寺領の町屋敷等に關して詳記し、永久に相續せん事を依賴した。(宗印遺書、祥雲寺住持職次第)然るに澤庵は東歸の際、宗印の孫源太郞(後源右衞門と改む)に書を送つて、後住は誰にも讓らず、寺は返還するにより、住持は誰にても依賴せよとのことであつた。(澤庵書狀、祥雲寺住持職次第、祥雲寺略記)【澤庵歿後の住職】斯して澤庵寂後住職を缺くこと十三年、後天祐紹杲を請し、天祐の後に傳外宗佐あり、天倫宗忽傳外の後を襲うたが、其間屢々住持を缺き、塔頭交互に寺務を處理した。是に於て元祿二年八月紫野大德寺大僊院に於て衆議の上、【輪住地となる】大僊派の輪住地となすこととし堺、京兩地在住の僧侶籍の次第により輪番交代することゝ定め、當日より直に傳心宗的住持し、每年七月晦日を以て交代期とし、寺は大僊院の末寺となつた。(祥雲寺住持職次第、祥雲寺略記)維新後に至り一代住職制となつた。寺は將軍德川家光以降幕府巡見所の一に加へられた。(文化十年年鑑)【本尊】本尊聖觀世音菩薩。傍に安置した達磨木像は正平十八年(貞治二)夏大佛師伊賀法橋屈乘作るところ、昭堂は元祿三年の創造で寂然塔の額を揭げ、寬永十四年夏大佛師本江左京康音作澤庵壽像を安置し、法王堂の本尊は釋迦、文殊、普賢の三尊であつたが、元祿四年京都の佛工望月左京定政をして、新に釋迦像を作らしめ、胎内に佛舍利を納めて之を本尊とした。(祥雲寺略記)【堂宇】本堂、庫裏、客室、小庫裏、書院、文庫、浴室、鐘樓、客寮、土藏、門及び門番所あり、外に昭堂と鎭守堂の二宇がある。境内千二百九十三坪。(社寺明細帳)【什寶】【國寶澤庵自賛畫像】【同釋迦二聲聞像】什寶中澤庵自贊畫像一幅は明治四十一年四月土佐光長筆絹本着色釋迦二聲聞像一幅は同四十三年四月各國寶に指定せられた。皇朝類苑十五册及び茄子型紫石硯一面は、澤庵原人論進講に際し、後水尾上皇より下賜せられたものであり、其他後陽成天皇綸旨一幅、勸修寺經廣筆後陽成院奉書四幅、傳中將姫筆釋迦像一幅、土佐光重筆涅槃像一幅、雲谷等益筆澤庵和尚贊震旦六祖傳六幅、聖觀音座像一軀、釋迦如來像一軀、達磨座像一軀、聖德太子座像一軀、本光禪師(笑嶺宗訢)自贊畫像一幅、古鏡禪師(一凍紹滴)自賛畫像一幅、僊嶽、雲英、兩和尚畫像一幅、谷宗印夫妻畫像二幅、谷安殷畫像(新井白石贊大心和尚贊)二幅、澤庵和尚所用袈裟、原人論講説の賀頌一卷等がある。【墓碑】又墓地には谷宗印、同安殷等を始めとして同家一門の墓碑がある。