禪通寺は長松山と號し、【寺址】寺址は戎之町東四丁にあり、【創建開山】臨濟宗大德寺末、大聖禪師宗然可翁の開山である。可翁は西園寺諒空、石塔賴房、梶原氏等を大檀越として嘉曆年中堂宇を創建した。初め建仁寺の塔頭天潤院末であつたが、天文八年の頃、大德寺九十八世黃梅院の開祖春林宗俶(永祿七年十二月寂)住持し、同二十二年正月には諸堂囘祿の爲め、再興に力め、方丈、佛殿を造營して中興開山と仰がれた。玆に於て寺院は遂に黃梅院に歸屬するに至つた。(堺禪通寺住持職之事、堺鑑中)次いで天正三年庫司火災に罹つたが、翌四年玉仲宗琇僧堂、佛殿、厨庫、山門等を復興した。(玉仲遺文)永祿十二年三月二日附彈正忠等の禁制狀を傳へ、【朱印寺領】又天正十四年七月豐臣秀吉は朱印狀を以て寺領六十石を寄せ、德川幕府に至つても舊の如くであつたが、明治四年正月上地した。【鎭守今池辨財天】鎭守今池辨財天は河内高安郡教興寺の辨財天と同作で、傳聖德太子作、開祖宗然草創の際鎭守として勸請したものであつたが、正平年中石塔賴房北莊下村領知の際、【辨財天移遷】今池の邊(舊向井村今池の北邊)に堂宇を造營して、遷座した。(今池辨財天緣(明治三十五年寺院提出書類))其後火災あり、堂宇及び尊像を失ひ、後年池底より尊像の手指を得、寬永年間京都の佛工に命じて新像を造立せしめたのを何時の頃よりか再び寺内に勸請せらるゝに至つたものである。例年陰曆正月七日には、尊體を供奉し、【祭祀】今池の舊址に祭祀を行ひ、晚に及んで歸還するを恆例とした。延寶八年堂宇を新營し恆例の祭祀もいつしか廢絶し、只境内の鎭守堂に祀り、之を今池辨財天と稱するのみとなつた。(堺大觀)寶永元年の記錄には、【舊塔頭】塔頭に曹源院、冝春院、德潤菴、正覺菴、友松菴、瑞泉菴、雲龍菴、富春菴の八坊を有し、(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)其中曹源院は前德禪桃林溪公の開基、冝春院はもと龍源菴と稱したが、中興前德禪陽月宗深(寬文四年正月八日示寂)之を冝春と改め、日抱〓公(寶永三年十月九日示寂)院號に改めた。(長松山禪通寺年鑑)維新後廢頽甚だしく、本堂、庫裏、納屋、門及び鎭守堂のみを存し、七百七十五坪の境域を有したが、【廢合】明治三十九年十二月少林寺町東三丁少林寺に合併せられた。(社寺明細帳)【墓碑】墓地には白幡氏範、小笠原氏親、堺奉行小笠原信用等の墓碑がある。