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分布地域

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 晩期の遺跡数は、後期よりわずかに増加し約四〇カ所を数える。しかし、現在市内で発見されている晩期の遺跡は、そのすべてが後葉以後の時代で前葉、中葉の時期のものは、まったく見ることができない。その分布を地域的に大きく見ると次のようになる。
一、西区の発寒川扇状地地区
二、札幌扇状地とその北部の低地地区
三、豊平川流域の石山、藤野地区
四、月寒川、望月寒川流域の月寒台地地区
五、厚別川野津幌川小野津幌川流域の野幌丘陵地区

 以上の遺跡の分布のなかで、後期と大きく異なる点がいくつかある。まず、紅葉山砂丘の手稲前田地区では、後期の手稲遺跡に見られたような拠点的な大遺跡はおろか、小さな遺跡さえもまったく発見することができない。これは、紅葉山砂丘全体にいえることではなく、紅葉山砂丘の南端についてのみ見られる現象である。紅葉山砂丘の大部分をしめる石狩町側では、晩期の良好な遺跡が存在する。
 次いで、豊平川流域の石山、藤野地区と札幌扇状地より北部の低地に遺跡が出現することである(付録分布図参照)。
札幌市遺跡分布図 (旧石器時代~縄文時代中期)札幌市遺跡分布図 (縄文時代後期~擦文時代)
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【附図2】 札幌市遺跡分布図 (旧石器時代~縄文時代中期)
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【附図3】 札幌市遺跡分布図 (縄文時代後期~擦文時代)

 各地域の遺跡の分布状況を簡単に触れると次のようになる。
 発寒川扇状地の遺跡は、現在四カ所が確認されN一九九遺跡の発掘調査を実施したのみである。後期の環状列石が発見されたN一九遺跡のような、地域の拠点となる大遺跡が営まれることがなかったようである。
 札幌扇状地とその北部低地では、北栄遺跡(H三八遺跡)の小発掘が二度にわたって実施されている。旧石器時代、縄文時代を通じて初めて低地帯に出現する遺跡である。
 住居跡等の遺構はまったく発見されず、土器を出土する層が冠水を受けているとも見られ、一部には洪水等の自然の営力により流入したのではないか、との見方もあるが、かなりまとまった土器・石器が出土しているので、当初からこの地に営まれた遺跡と考えてよいであろう(図19-1~7)。
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図-19 縄文晩期の土器(H38遺跡)

 扇状地の平岸面の平岸地区では、過去の記録に晩期の土器の出土が見られるが、現在はすべて消滅しており確認することができない。後期でも触れたように、本州各地や道内の低地部の遺跡の発見が相次いでいる現状から、市内でも今後札幌扇状地の末端や台地と低地の接点の深い部分から、遺跡が発見される可能性が大いに考えられる。
 豊平川上流の石山、藤野地区と真駒内川の常盤地区で四カ所の遺跡が発見されている。この地区は、後期にはまったく遺跡の発見されなかった地区である。正式な発掘調査を実施していないため、詳細は不明である。
 月寒川、望月寒川流域の月寒台地では、標高二〇メートルより高い地域から、一〇余カ所の遺跡が発見されている。標高二〇メートル付近には、中期からの複合遺跡であるS三五四遺跡、白石神社遺跡などの良好な遺跡が存在し、S三五四遺跡では墓数個を発見している。標高三〇メートル付近の月寒川ラウネナイ川の合流点には、やはり中期からの複合遺跡であるS一五一遺跡があり、墓多数が発見されている。標高六〇メートルのラウネナイ川流域には、墓六九個と竪穴住居跡を発見したT四六六遺跡があり、月寒川上流の水源地近くには、終末から続縄文初頭の墓六九個を発掘したT二一〇遺跡が存在する。
 野幌丘陵では、野津幌川流域のS一五三遺跡が特に注目に値する。標高約二七メートル付近で湧水点を取り囲む台地上に存在し、前期を除く縄文時代全般と続縄文時代の遺物と、墓約八〇〇個近くが発見されている。この他ではS二六八遺跡から、ややまとまった土器が発見されているのみで、他はすべて土器片数点を出土するキャンプ地的な遺跡である。