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イシカリ山請負

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 宝暦年代(一七五一~六三)以降になると、イシカリ場所の請負の形態のひとつとして、イシカリの蝦夷檜山の伐木、すなわち山請負をしつつ次第に夏商場所の請負に変化していくかたちがあらわれてくる。飛驒国出身の材木商飛驒屋久兵衛がそれである。
 飛驒屋久兵衛は、はじめ同じ材木商栖原角兵衛の下請けとして、奥州南部で檜の伐木に従事していた。元禄十五年(一七〇二)には、蝦夷地の豊富な蝦夷檜に着目して松前に渡り、まず東蝦夷地シリベツの蝦夷檜(エゾマツ)の伐採を願い出、江戸・大坂に移出した。のち東蝦夷地サル・クスリ・アッケシおよび西蝦夷地イシカリ・ユウバリ・テシオ等の蝦夷檜山を開き、次第に利益を得ていったと伝えられている(飛驒屋旧記)。
 飛驒屋が、イシカリ山に杣夫(そまふ)を移すようになったのは、宝暦二年(一七五二)からのようで、アッケシ山の取木がなくなったからであった。翌年七月二十八日付のイシカリ山伐木願書によれば、宝暦五年より八カ年間イシカリ山へ杣夫を入れ、寸甫=丸太一〇〇石につき二八〇挺のものを一カ年一万二〇〇〇石ずつ伐り出し、イシカリ川へ流送し運上金一カ年六〇〇両ずつ納入するといった内容であった。実際、宝暦四年には伐木が行われたようだ。
 飛驒屋イシカリ山伐木に関する史料は、『武川家文書』(岐阜県下呂町教委蔵)の中に残されており、伐木場所、営業状況等を知ることができる。このうち、伐木場所についてはイシカリ山伐木図が残されており、それについては第七章で詳述したい。
 イシカリ山伐木を中心とした飛驒屋の営業状況は、『惣元立指引目録』で宝暦四年より山請負をやめる前年の明和五年(一七六八)までについて、毎年ではないが知ることができる。表3は、イシカリ囲木寸甫と江戸・大坂登寸甫等の各生産高と、山方入用金等山方費用高および商売徳用金(純利益)等を拾いあげたものである。ためしに宝暦十年分の生産高をみてみると、イシカリ囲木寸甫と江戸・大坂登寸甫とを合計した四万五四七八挺であり、代金は、一万六八一両であった。これを一〇〇石につき二八〇挺の割合で石数になおすと、一万六二四二石で、宝暦三年の伐木願書にある予定生産高一万二〇〇〇石を上まわっていることがわかる。その一方、支出では、同年の山方費用高、すなわち伐木のための支出高は、二五九六両で、これ以外にも支出項目として、「夏商運上金」や「夏商仕入金」、「貸し金」、「冥加金」などの支出項目が随処にみられる。
表-3 イシカリ山生産高および山方費用高(宝暦4~明和5年)

項目

生産高山方費用高各年商売徳用金(純利益)備考
イシカリ囲木寸甫江戸・大坂登寸甫イシカリ山方入用金杣方当座渡金6月9月勘定分手代貸し通船入用
挺数代金挺数代金
宝暦421,279挺6,079両………挺……両1,401両402両…両99両1,244両イシカリ山囲木か
宝暦615,8254,5218,9372,5532,268347134974,569宝暦5年分を含む
宝暦818,384………27,596……2,09542221457782
宝暦1026,3116,11819,1674,5631,811425326341,699
宝暦1120,7294,93530,6317,6572,054535268512,457
宝暦1338,8609,25314,5613,6402,030520338412,209
明和元53,90612,83422,2035,5501,918436318582,604
明和267,97516,18421,4515,3621,52457254-1,487
明和441,9379,98514,6443,6612,18026237037669
明和536,5708,70725,8166,4542,09527128357155
年平均34,1788,73520,3184,9301,938368278591,355
1.武川家文書惣元立指引目録」より作成。2.金額は両までで、歩以下は切捨てた。3.年平均の小数以下は四捨五入した。

 結局、同年の「商売徳用金」、すなわち、その年の総決算に相当する「惣元〆高」より、前年の「惣元〆高」を差し引いた純利益金は、一六九九両ということになっている。この表によれば、「商売徳用金」は年によって相当差異がみられるが、明和元年の二六〇四両を最高に、翌年は多額の損金さえ生じ、帳簿の上ではその後の回復のきざしはみられない。
 ところがこの一方、『惣元立指引目録』の支出内訳のなかに、「借上金」が多くあることに注目せざるを得ない。たとえば、損金を多く出した明和二年の場合でも、
 同(金)四百両     高橋七郎左衛門様
     年賦かし上
 千四百七拾六両三歩     松前借上金
 但御用人様御山奉行様御連名御証文
 三百五拾両     氏家新兵衛様
     牧田忠兵衛様
 右ハ御内分金かし上金

といった具合に、一部を取りあげた限りでも「借上金」が二〇〇〇両を超えている。この「借上金」は、宝暦四年以来ずっと帳簿の上にみられるもので、伐木事業のかたわら同業商人はもとより、松前藩士さらには松前藩にまで融資を行っていたことを示している。そういった傾向が、帳簿の上からも宝暦~明和年中にかけてとみに目立っていることもいなめないが、このことは、飛驒屋蝦夷地内の森林資源の伐採権の一手独占をねらっていたこととも関連するのであろう。宝暦十一年には、二年後の蝦夷檜山請負更新にあたり、「椴惣山御留山」(材木の値下げをおそれ、檜葉以外である椴材の伐出しを禁じた)と、「冥加御用」を出願して許可されている。また明和四年(一七六七)には、飛驒屋の旧南部屋嘉右衛門が運上金のほか、年に米一万俵上納を条件に飛驒屋請負中の蝦夷檜山請負を出願したのに対抗して、飛驒屋運上金を年額六〇〇両から一〇〇〇両に引き上げること、二〇〇〇両を先納することで、「御領内唐檜並類木共」(安永九年六月の訴状 飛驒屋旧記)請負の出願を行い、許可となっている。この場合飛驒屋が、「蝦夷檜葉幷椴惣山」(明和四年八月二十五日付覚 飛驒屋旧記)あるいは「類木共」の留山を出願した背景には、宝暦八年、ユウラップの椴材が出荷されたことにより、イシカリ山の寸甫単価がそれまで一両につき三・五本だったのが、四・〇本に値下げされ、さらに同十一年には四・二本にまで下げられたことがあったからでもある(惣元立指引目録)。
 しかし結果的には、明和四年の飛驒屋の出願にもかかわらず、松前藩南部屋嘉右衛門に対し、「類木伐出」の許可を与えている。飛驒屋は、抗議したにもかかわらず認められなかったため、先納金や御用金の返済を条件に山請負の返上を藩に申し出、藩もこれに応じたため、山請負の権利はすべて南部屋に移ることとなった。この後、山請負南部屋から江戸の新宮屋へと移った。しかし安永二年、藩直営の名目で再び飛驒屋が請負うことになった。それには、山林の経費一四〇〇両、幕府への米代金一四五六両を飛驒屋に出金させるという条件の下に、「材木伐出方支配」が与えられた。しかし新宮屋は、六八〇〇両もの藩への貸金を残したまま山請負の権利をとりあげられたため、訴訟問題におよび、翌三年内済となり、山請負新宮屋にもどされた(飛驒屋旧記)。