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熊野屋菊池忠右衛門

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 阿部屋村山伝兵衛が、南条安右衛門と、「しやつほろ」場所夏商の請負証文を取り交した同じ明和二年(一七六五)、南部の山師熊野屋菊池忠右衛門は、福山城の表御門などの普請費用の引当としてイシカリ秋味跡買添船四〇〇石積一隻を、運上金一カ年三五両で許可されている(熊野屋忠右衛門前々由来書 函図)。この秋味跡買添船というのは、イシカリ場所の一年間の商のうち、夏商秋味秋味跡買、秋味跡買添船、鱒といった諸権利の一つである。
 翌三年、家老松前広長は、イシカリの切囲一〇カ年拝領願に対し、とりあえず三カ年の許可を与えた(旧記抄録松前町史 史料編第一巻)。これにより、熊野屋は、イシカリ切囲と秋味跡買添船とを安永八年(一七七九)に取り上げられるまで継続している。ここでいう切囲とは、『松前産物大概鑑』によれば、秋味漁期に、網引場で直接船で買い上げて塩漬けにする塩引に対し、浜の蔵に塩漬けにして囲い置き、翌年船に積み込む塩引鮭のことをいった。その代わり値段も三割方安かった。
 熊野屋が、安永八年、イシカリの切囲と秋味跡買添船の両方の権利を取り上げられたのは、次に述べる南部屋浅間嘉右衛門に横取りされたからにほかならない。イシカリ場所での権利を失った熊野屋は、天明二年(一七八二)、イワナイ場所を許可されるが(蝦夷地一件 新北海道史 第七巻)、まさに城普請の引当として場所請負を許可された例である。