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御救交易

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 天明五、六年の蝦夷地調査は、ロシア人が蝦夷地の北辺に迫っている状況を明らかにし、幕府もそれを等閑視することができなくなった。加えて寛政元年(一七八九)のクナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起事件が発生し、その原因がアイヌ場所請負人に対する不満からであったので、幕府の心配を実証したようなものであった。当時の松前藩は、財政逼迫のため蝦夷地の各場所は、いずれも商人に請負わせて運上金を徴収する方法をとっており、請負人はアイヌを使役して利益をうることに腐心し、アイヌから少なからぬ反感をかっていた。
 このため、幕府では、主として蝦夷地のことを担当した老中本多忠籌が、「蝦夷の人の、御恩沢にしたかひ奉る様に」と建言したことにもとづいて、寛政三、四年にかけて、御救交易(おすくいこうえき)の名目で蝦夷地のうち数カ所で交易を試みることになった。寛政三年は、アッケシ、キイタップ、クナシリで、翌年はソウヤとイシカリでそれぞれ試みられた。イシカリでの御救交易の状況については、串原正峯の『夷諺俗話』に、「今年イシカリ川にて鮭漁御用交易ありしか」と触れているのみで、詳細についてはわかっていない。
 ところで、御救交易および調査にあたったメンバーに、普請役田辺安蔵、最上徳内中村小市郎、小人目付木村大蔵、和田兵太夫ほか一名、それに西丸与力小林源之助がいた。このうち小林源之助は、蝦夷地の草木標本採集も担当していたらしく、イシカリ川近辺の岩石、砂、化石類のほか、「イシカリ川ツイシカリ辺ニテ蝦夷ノ作ル粟稗ノ穂」まで採取し、蝦夷地の草木類を写生したみごとな『蝦夷草木譜』(国公文)を残している。さらに一行は、蝦夷地沿岸を写生した『蝦夷地見取絵図』(同前)も残している。それによれば、一行がイシカリに到着したのは三月晦日、運上屋に止宿して、四月四日まで滞在したらしい。イシカリ川口には、十三場所の運上屋が軒をつらねて並んでおり、付近一帯には平地が続き、枝川が諸方に通じていた。はじめて見るイシカリ川とその付近に広がるイシカリ平野がよほど印象が深かったとみえて、絵図の付箋には次のように記している。
イシカリ
此川幅凡百弐拾間程秋味之頃ハ大船数艘往返仕候。クマウシより此処へ着運上屋へ同宿四月四日出船仕候。
此辺一円平地ニて枝川諸方へ通し通路自由。本川上迨は廿日路程も有之候様承知仕候。石狩枝川イベツ通東蝦夷地ユウフツと申処迨ハ四日路程も有之。都て田畑宜敷場所と奉見請候。右川辺之蝦夷共当年之作物甚宜敷実のり候趣申候。東西弐拾里、南北五拾里程之広地土地宜敷様及見候。


写真-1 蝦夷地見取絵図 国立公文書館蔵

 小林源之助はじめ、御救交易に参加した一行は、イシカリ平野とイシカリ川の発見とともに、田畑に適した肥沃な土地あるいは、イシカリ川の豊富な秋味、そして東蝦夷地ユウフツへの交通の要路であることに着目したようである。
 幕府による御救交易の結果は、枡・秤を正しくして、交易品も良品を選び、アイヌへの「撫育」にも励んだので良好だったようで、寛政十一年の東蝦夷地の直轄の基礎ともなった。