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直轄と経営方針

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 寛政十一年正月十六日、幕府は、蝦夷地御用掛として、勘定奉行石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正養、使番大河内善兵衛政寿、吟味役三橋藤右衛門成方を命じた。こうして、東蝦夷地および付属諸島を当分の間幕府の用地とし、その担当として老中戸田采女正氏教を命じた。
 直轄の範囲は、最初ウラカワよりシレトコおよび東奥島々までとしたが、同年六月松前藩は、幕吏の松前領内往来繁雑により困難なので、知内以東も直轄するよう内願、八月十二日知内以東の追直轄を認め、松前藩へは五〇〇〇石の代地を下付した。
 幕府は、同年二月十日、蝦夷地経営方針のうちアイヌへの対応策を打ち出した。当時松前藩領である西蝦夷地には、まだ直接関係しなかったものの、文化四年の西蝦夷地直轄以後深く関わることになるので次に掲げておく。
交易の際、枡目・秤目を偽ったり、粗悪品を渡すなどの不正を行わない。
耕作の道を教え、穀食が肉食よりも尊いことを教える。そうすれば、いずれ農事を施す時に進歩も早いにちがいない。
今度の幕府の意向をよく言い聞かせ、言と実を一致させ、服従の妨げとなるようなことはしないで、実をもって示すこと。
人足等に従った時、賃米は遠近に応じて間違いなく渡し、疑惑を生じさせないこと。また、その働きに応じて、品物・酒・飯を給し、稼方に出精するよう取りはからうこと。
和語の使用を許可すること。
和人風俗にあらためる者は、月代(さかやき)をさせ、服も与え、和風の住居も拵えて、周囲の人びとをも風俗をあらためるようにする。
親に孝、兄弟、親類にむつまじく、上を崇め、朋友に信の道をつくすことを諭し、いろは文字、数の文字等を教えること。
人倫の道を教え、男女とも独身の者がないように、子孫繁盛するよう取り扱うこと。
病気の時は、夜具、薬用、手当をほどこし、死亡者を多く出さないようにすること。

 これらの条項は、幕府のアイヌ「撫育」策の基本的姿勢を示したものといっていいだろう。松前藩場所請負人の自由自在に任せておいたアイヌへの対応を、この時点できっちりとする必要が生じたからである。この対応策は、以後アイヌの同化政策の基本に据えられることとなる。
 幕府は、アイヌへの対応策を決定した一方、財政難の折からアイヌ交易を直営にし、同化政策をとりながら、その収益によって財政の建てなおしをはかろうとした。そのためには、東蝦夷地場所請負人から場所の経営権を取りあげて、直捌(じきさばき)とした。このような蝦夷地経営の施策細目が、寛政十一年二月二十一日、松平、石川、羽太、大河内、三橋の蝦夷地取締御用の五有司連署で、蝦夷地御用取扱立花出雲守種周に進達され、やがて実施された。
 これにともなって、東蝦夷地内の各場所を会所とあらため、幕府が直接経営にあたることをアイヌに伝えるとともに、通詞、番人はそのまま採用し、直接監督や交易にあたった。
 また、あらたな流通部門として江戸にも会所を設けて、幕府が経営にあたり、蝦夷地の産物の売払から蝦夷地の仕入物の購入まで行い、江戸掛りの役人の御用取扱所とした。箱館にも数名の用達を置き、全国各要港に用達、用聞きを置いて取引の円滑をはかった。さらに、蝦夷地内の交通の整備も行い、山道の開削、宿泊施設の設置、駅逓の制を定め、馬牛を各地に配備した。