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蝦夷地警備と「在住」の任用

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 蝦夷地警備体制としては、盛岡(南部)、弘前(津軽)の二藩にあたらせ、大砲を江戸より廻送して要処に備えた。それとともに、武州八王子の千人同心をユウフツ、シラヌカの二カ所に配備し、開墾と蝦夷地警備を兼備した屯田農兵とした。
 屯田農兵制は、前述した大原左金吾によっても唱えられたが、寛政十二年(一八〇〇)、八王子千人頭の原半左衛門が、同心の二・三男、厄介人等を引き連れて蝦夷地に移住し、警備と開墾とに従事することを願い出、それが許されてはじめて実現をみた。原半左衛門と弟の新助は、同心子弟、厄介人等一〇〇人を引き連れて蝦夷地に入り、半左衛門はシラヌカを、また新助はユウフツを持場とし、それぞれ五〇人ずつに分け、警備を主として耕作も兼ね、会所交易にも従事するというものであった。翌享和元年、後続隊として三〇人が加わり、半分ずつに分けて入地した。彼らの身分は、原半左衛門手付同心の者ということで、扶持は蝦夷地御用掛ユウフツ会所入用金で賄われた。
 しかし、幕府によって蝦夷地内に、それもシコツ越え道の東の玄関口ユウフツ等で試みられた最初の屯田農兵制は、成功していない。原新助自身が入地したユウフツは、火山灰地に加えて湿地帯のため農耕には不適で、ために土地肥沃なムカワに移動している。その結果入地二年目で、数十町歩が耕され、大麦、小麦、粟、大豆、小豆、蕎麦、黒豆、菜豆、野菜類が収穫されたが、浮腫病ないし壊血病に似た症状で死者が続出、享和三年段階で一〇三人入った者のうち、残ったのは八五人であった。
 結局、原半左衛門がたまたま文化元年(一八〇四)、箱館奉行支配調役に組み入れられた後、手付の者も地役御に召し抱えられていくこととなり、同四年の西蝦夷地の直轄後は、「以来は御宛行二十俵弐人扶持被下同心と唱へ抱入申たく」と、箱館奉行同心に組み入れられていった(休明光記)。ムカワ開発場も、同五年には「家一軒もなく、元の曠野、平野と荒果」(毛夷東環記)るありさまであった。
 いまひとつ幕府が蝦夷地直轄後、あらたに箱館奉行所の組織のなかに任用した身分に「在住」がある。この時期のサッポロとは直接関わりはないが、幕末の「在住」制との相違を知る意味でみておく必要があろう。
 「在住」の最初の任用は、寛政十二年二月二十八日付の幕府先手青山三右衛門組同心井上忠右衛門が、家族同伴で蝦夷地へ移住することを許可されたのにはじまる。表1は、おもに『休明光記』の範囲内で作成した「在住」一覧表である。表によれば、次に発令の早いのは、八王子千人同心の杉山、石坂、河西の三人で、それぞれ山越内、七重、ユウフツ詰めとなっている。ちなみに河西の職務をみるに、『毛夷東環記』によれば、いま一人の「在住」河田甚太郎とともに、ユウフツ開墾に入った千人同心原半左衛門手付のものの警備と開墾事業に関する出納事務や管理にあたっている。それのみならず、イザリムイザリの漁業権紛争に関与するなど、ユウフツ場所の行政の末端をも担っている。西蝦夷地直轄後は、調役下役に昇進、イシカリ場所詰合も兼ね、イシカリ着任目前に病没している(土人由来記、休明光記)。
表-1 「在住」一覧表(寛政12~文化4年)
氏名発令月日元身分手当勤務地備考
1井上忠左衛門寛政12.2.28御先手青山三右衛門組同心文化元9.16.調役下役へ
2河田甚太郎寛政12.12.29大御番市橋下総守組200俵高金
[道中入用金30両20両10人扶持]
ユウフツ享和元10.帰府
3望月三作寛政12.12.29小普請組仙石弥兵衛支配
         医師
200俵高金
[引越入用金70両20両10人扶持]
ユウフツ享和3.1.病気につき御免
4小川喜太郎御先手木原兵三郎同心1ヵ年金3両文化元9.16.調役下役へ
5杉山良左衛門寛政12. 閏4八王子千人同心組頭山越内文化4.調役下役へ
6河西祐助寛政12. 閏4八王子千人同心見習ユウフツ
→イシカリ
文化4.調役下役へ
7福井政之助小普請組彦坂九兵衛組文化元9.16.調役下役へ
8石坂武兵衛寛政12. 閏4八王子千人頭河野四郎
左衛門組同心組頭
七重文化元9.16.調役下役へ
9六笠仁兵衛箱館「文化五年蝦夷島固場所御名前控」より
10田中直蔵
11田中定右衛門
12今川小三郎カラフト
13重松熊五郎清水表向勤番クナシリ
14向井嘉助西丸御持頭松平信濃組同心文化4.調役下役へ
15代嶋章平   在住勤方
16関谷茂八郎御持頭桑山伊兵衛組同心文化元9.16.調役下役へ
文化4 シャナ詰
17増田金五郎文化4.4.16小普請組八木十三郎支配在住
18岩間哲蔵文化4.4.16御書院番頭高木伊勢守与力在住
19武見弁之助文化4.4.16御先手木原兵三郎同心在住
20遠藤津右衛門文化4.4.16御先手荒尾但馬守組同心在住
21森内祐次文化4.4.16西丸御先手渡辺久蔵組同心在住
22斉藤要八郎文化4.4.16御鉄砲玉薬奉行組同心在住
23金井泉蔵文化4.4.16御具足奉行組同心在住
24和田貞吉文化4.4.16浜御殿番世話役在住
25田村兵左衛門文化4.4.16御船手丸毛甚三郎組水主同心在住
26海久保和三郎文化4.4.16評定所同心在住
27水谷茂十郎文化4.4.16御代官竹垣三右衛門手付在住
28丹羽鑑次郎文化4.4.16小普請組逸見左近組在住
29石井善蔵文化4.4.16小普請組蒔田権佐組在住
30平川半次郎文化4.4.16小普請組小浜長五郎組在住
31牛袋左兵衛文化4.4.21小普請組岩本石見守
支配世話取扱
在住
休明光記』(新撰北海道史 第七巻)ほかより作成。

 さらに、「在住」手当をみるに、「志願」した井上、河田、望月の場合、井上を別として元身分に応じて二〇〇俵、高金二〇両、一〇人扶持で、道中入用金が下付されている。元身分はどうであろう。圧倒的に同心、組、与力出身であることに気付く。しかも、任用の時期が、寛政十二年と文化四年に集中しているのは、直轄の時期とも関わるのであろう。「在住」の人数では、享和元年には一二人、同三年で一八人である。箱館奉行では、文化四年、「在住」五〇人必要を主張、「小普請、御普代之内より差遣わし、尚不足之分ハ諸向御抱席」よりの補充を提案した。このため、同年あらたに一五人が任用されている。その一方で、河西祐助のように「在住」から調役下役へ昇進したものもいた(休明光記)。
 幕末の「在住」とは、内容においても大きく異なると思われるが、いわゆる「文化度」の「在住」とは、このような経緯で任用された。