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磯谷則吉

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 皆川周太夫新道開削見積りを提出させた蝦夷地御用掛松平信濃守忠明は、皆川周太夫の踏査した翌年の享和元年(一八〇一)、ユウフツよりシコツ越えしてイシカリに抜け、西蝦夷地を巡見した。そのことについては、幕府の公式記録『休明光記』に詳しいが、ここでは、一行の一人である磯谷則吉の『蝦夷道中記』から当時のシコツ越えの様子をみてみることとする。
(五月四日)ユウブツ川を登る凡十間余にして浅き川なり。二里計にして湖に至る。廻り凡三里もあるへし。中央を通りて又一里半計にしてビヽと云所に至。三四家ありてシコツよりを運送す。此所にいたり川内いと狭くしてチプさへ横たへかたし。[チフは蝦夷舟の名巾弐尺四五寸長さ壱丈計り木ヲクリて両端に壱尺計り板を付木之皮を以て結付たり。]是より林中を行事半里にして左右眼の及限甘棠の花盛なる事壱里に及ふ。其気色行過かたくそ覚ゆ。ロウサンと云所の会所に至。某公より道をはやめよと書残し給へれはいそき支度して申刻過ウツロ舟に乗。[此舟は巾弐尺計長弐間計之大木ヲクリタル也。棹取ル夷人三人番人壱人惣テ七人座したりてみナ自由なりがたし。]シロツ(ママ)川を下ル。早き事矢のことし。壱里半計にしてオサツトウに至る。周廻凡五里計もあるへし。[湖沼ナドノコトヲ夷人唱テトウト云。本邦ニテモ池沼ノコトヲ堤といへば是モツヽミノコトニテ塘ナルヘシ。]ロウサンより三里余にしてイヒツと云所に至るに酉ノ半刻頃なれはいとくろふして東西をわき難し。はるかそなたに人声するをたつきにて舟さし寄て見れは兼て石狩より迎として登り居たるズワイ船也。是に乗移りて夜を明しぬ。明日は端午の節なるにかゝるあやめも知らぬわさも旅のならゐかや。
 思ひきや蝦夷の旅の五月やみあやめも
   しらぬうらきねせんニハ
五日夜の明日を待て船を下す。左右林木のみにて他に詠〆なし。川に添て夷家ありて凡廿五里にして石狩に着ぬ。此所は松前運上屋其外松前の商人共の仮小屋等あまたありて秋あし時分には所々より輻湊して賑ひをたに勝れたり。川巾七八十間水深くして千石船をも入つへし。此所にて某公風待し給へり。

 このように、磯谷則吉ら一行は、ユウフツよりイシカリまで川舟・徒歩・川舟でおよそ三二里の道のりを二日間で通行している。同書には、前記の日記とは別に、巻末に行程表が付されていて、沿道のアイヌの戸数や会所・番屋・支配入、交通手段や地理的観察を細かに説明している。表1は、それらを整理したものである。この表に示したとおり、ユウフツ・イシカリ間の地名は二三あがっている。このうちアイヌの家があることが確認されるのは二〇である。イシカリのところで、「十八ケ所ハ川の左右にそふて居住ス」とあるのをみると、残りは枝川のアイヌ居住地名だろうか。そのひとつ「トユビラ」は、「サツボロ川小流」と記され、後世のトヨヒラに相当する地名であろう。ちょうどこの時期に、サッポロ川本流の流れがツイシカリ川へ切り替わっていることも考え合わせると、トヨヒラの地名の初出と位置についての重要な記述となろう。
表-1 享和元年ユウフツよりイシカリまでシコツ越え道沿道状況
地名アイヌ戸数会所・番屋・支配人交通・地理的状況
勇武津7~8戸会所詰合河西祐助以下3人、支配人シラオイより9里
ビヾ番屋ユウブツより川舟5里、この間周囲およそ3里余のキムントウあり
ロウサン7~8会所支配人ユウブツよりおよそ7里、山道甘棠多し
シコツ12~13会所支配人ロウサンに隣3~4丁、ここよりイシカリまで川舟、シコツ川2里にてオサツトウ
オサツ記入なし
イヘツ2ロウサンよりおよそ3里
イチヤリあり小流合す
シマヽツプあり小流合す、シコツ川に途中ユウバリ川合流、5~6里 上流にユウバリ
ツイシカリあり (イヘチフトと順序は逆か)
イヘチフトありシコツ川合流して大河
トマヽタイあり
トベツチ3~4
チヨナイ3~4
イケツトシカ3~4
シヤツボロ3~4
トユビラ3~4サツボロ川小流
ハツシャブ3~4
フシコベツ2~3イシカリの旧流あり
トヤレ2~3小流合す
シフシフシ2~3
マクンベツ2~3
トクヒラ7~8
石狩運上屋、小屋14~15シコツより川舟24~25里、松前の領分
1.磯谷則吉蝦夷道中記』より作成。 2.地名は原文どおりとした。