嘉永六年(一八五三)六月三日に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦四隻を率いて浦賀に来航し、日本に開国と通商を求めた。これによって、日本は開国か攘夷か、勤王か佐幕かと国是・政治体制をめぐり、大きく激変流動した。
幕府はやむなくアメリカの要求をうけ、翌七年(安政元年)三月三日に、日米和親(神奈川)条約を締結し、下田と箱館の開港がとり決められた。箱館開港にしたがい、幕府は松前藩より箱館の五、六里四方を上知し、六月三十日に箱館奉行を設置し、外国人や外国船舶の応接にあたることになった。
一方、北太平洋地域で活動し、アメリカと先陣争いをしていたロシアも、ペリーと同じく嘉永六年七月十八日に、プチャーチンが四隻の軍艦を率いて長崎に来航し開港を求めた。しかもその国書中には、蝦夷地における国境画定の要求があったが、八月三十日には、カラフト南端の要衝クシュンコタンに兵を揚陸し、兵営を築き、占拠する実力を示し、国交開始によって当然生ずる北方の領土問題と警衛が切実な問題となった。幕府はこれに対処するために、翌七年一月には村垣範正・堀利熙を松前蝦夷地の御用掛となし交渉に当たらせ、つづいて二月八日に蝦夷地調査のための出張を命じた。両人は調査の結果を九月に復命したが、その中で、蝦夷地の警備・開発及びアイヌの「撫育」のためには、蝦夷地を文化年間のように幕府による直轄が必要なことを力説し、さらに、安政二年(一八五五)一月十三日に、蝦夷地を松前藩より上知し、幕府による第二次直轄を建議した。この結果、幕府は二月二十二日に、松前藩に対し東部は木古内以北、西部は乙部村以北の上知を通告し、箱館奉行の管轄とすることにした。これにより箱館奉行は、これまでの外国との応接担当から、さらに蝦夷地の支配・行政全般をつかさどる一大機関となった。
箱館奉行の奉行には、竹内保徳・村垣範正・堀利熙の三人が任命され、それぞれ江戸・箱館在勤・蝦夷地廻浦と役割分担し、外交折衝や蝦夷地経営に当たった。この奉行のうち、村垣範正と堀利熙はイシカリ改革などを通じ、イシカリ・サッポロとの関係も深く、サッポロの開発に大きな基礎を築いた奉行である。
第二次直轄以降、これまでの出稼による漁業・商業に依存する体勢ではなく、進んで農業・鉱山・林業などの移民を基とする大幅な開発計画も積極的に立案されるようになった。そのために、道路の布設や内陸輸送の制度の整備も行われ、アイヌ問題については、領土問題との関係で「撫育」制度の手なおし、「和風化」政策へのとりくみもみられるようになった。