改革により事務量が増大し、イシカリ役所では役人の大幅な増員がおこなわれた。このことはすでにイシカリ改革の計画にくみこまれていた。
四月二十八日に、オタルナイ・タカシマ場所詰であった支配調役下役の宇津木頼母を、「イシカリ御用当分兼勤之儀」が、金助から村垣範正に申したてられている(公務日記)。頼母の兼勤は、いつまで続いたか不明であるが、これは短期間であったと思われる。
イシカリ詰の上層部では、八月九日に下役出役の飯田豊之助がカラフト詰となり転任している。豊之助は安政四年六月以降、金助を補佐してイシカリ改革を推進した人物であった。特にサッポロ越新道は、彼の尽力によるところがおおきい。豊之助はこれより先、六月十六日にカラフトの漁業開発について建言しており、その中で自ら北地(カラフト)詰を願っていた(燼心餘赤)。これがいれられ、今度の転任になったのであろう。これとは別に、金助を補佐する立場として城六郎が任命された。城六郎は、この年(安政五)五月三日に、三枝左兵衛組御徒小普請方仮役より、箱館奉行の調役並出役となった。当初はカラフト詰で箱館を出立したのであったが、豊之助の転任をうけ、八月二十六日にイシカリ詰の申達をうけ、六郎はイワナイにて承知の返書を差し出している(公務日記)。六郎の任命により、イシカリ詰の調役は、調役並の金助とあわせ二人になり、今後のイシカリ場所・役所は、金助・六郎の両人による〝両頭体制〟で運営されていく。調役が二人おかれたのは、イシカリ詰のみである。これはカラフトにイシカリ出稼の漁場が設置されたことにも関係する。
下役では、豊之助の後任に村田小一郎が任命された。小一郎は城六郎と同じく、この年(安政五)の五月三日に、箱館奉行に出仕した。もと御鉄砲方、田付四郎兵衛・田付主計組同心、御軍艦繰練教授方手伝出役であった。小一郎は八月二十三日にヨイチに到着している(林家 御賄留)。イシカリ入りは、これより間もなくであろう。小一郎は慶応元年(一八六五)まで在任した。
もう一人の下役出役は、渡辺五郎一(勘十郎)である。五郎一は『ヨイチ御場所見廻り日記』安政六年(一八五九)八月二十九日条に、「是迄シマコマキ詰の処、石狩へ更(交)代」とあり、この直前頃の任命であった。五郎一は御普請方役所門番人出役から、安政二年十月十六日に調役下役となる。イシカリ役所では、万延元年(一八六〇)一月六日に、市中取締掛も兼務した(市史一九二頁)。文久元年(一八六一)十二月までの在任が確認される。
野崎河内右衛門は、安政五年四月十七日に同心から調役下役となる。彼は安政二年十月十七日に同心として、箱館奉行に出仕した人である。先の調役下役に昇進した頃に、イシカリ詰となったようである。イシカリ改革に際しては、「漁場改革に付取調、其外土人召連れ山中処々見分」をなしたという(木村家文書 村並仕法替書類)。また、安政六年には、城六郎にしたがいクシュンナイへ出張しており、改役所の担当であったとみられる。河内右衛門の在任期間は短かったらしく、七年以降の存在が確認できない。この後任が、渡辺五郎一と思われる。なお、下役は安政六年に定役と称が変わった。