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蝦夷紀行等

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 村垣グループに加わった人の記録の中、次の五つを対照してイシカリの様子をうかがうことができる。
 一 『蝦夷紀行 全』と表紙にあり、本文書きはじめに「従東都奥州通三馬屋迄、従松前蝦夷地唐太嶋中韃靼境迄、箱館迄御休泊日記帳」と読むらしい標題がもう一つついている。昭和六十二年、沙羅書房から影印と解読に解説をつけて刊行された。これを沙羅書房本と略称する。
 二 『蝦夷日記 全』 北海道大学附属図書館所蔵、北大本と略称する。
 三 『従松前西蝦夷地北蝦夷地唐太嶋東蝦夷地日記覚』 市立函館図書館所蔵、同館目録には『西蝦夷地東蝦夷地松前蝦夷地唐太嶋日記覚』とあり、函館本と略称する。
 四 『奥州街道松前幷西蝦夷地唐太東蝦夷地見聞日誌写』 札幌市海保嶺夫氏所蔵、昭和四十四年北海道立図書館の古文書解読講座テキストとして蝦夷地分が複製配布されたことがある。これを海保本と略称する。
 五 『蝦夷目撃 完』と表紙にあり、本文書きはじめに「松前より蝦夷地え巡見役人幷地名里数宿々休泊附」という標題がある、国立公文書館内閣文庫所蔵本。内閣文庫本と略称する。
 以上五本をまとめて紹介するのは、イシカリ周辺を例としても、その記事に相互のかかわりがあり、別々の筆者による著述とは考えにくいからである。とはいえ全く同じものとも言いきれない。そこで五本の異同について少しふれておきたい。
 記事量が多く、内容の詳しいのは沙羅書房本なので、それをもとに他本を対照する。まず、北大本と函館本は江戸発から松前着まで、及び箱館台場検分後の記事を欠く。この二本とも役人名前一覧で始まり蝦夷地里数と運上金調書で終わり、文中多少の違いはあるが底本は同じと思われるので、ここでは北大本により検討を加える(したがって以下四本とする)。海保本は北大本の欠部をそなえているが、簡略な記事になっており、一見沙羅書房本の抄録かと思える。しかし海保本にあって沙羅書房本にない記事がみられるから両者が直接の底本写本関係でないことがわかる。それにしても北大本にくらべ、より近いかかわりは認められよう。内閣文庫本の記事量は海保本よりもさらに少なく、箇条書きで内容は北大本に近いが、巻末にロシア船渡来の記事を収め、構成がやや異なっている。また、北大本にあって沙羅書房本にない記事がオタルナイの文中に多い。弁天宮をはじめ「鯡取漁人、二月始六月引払」「此村鼻にて……甚だ難所」、イシカリの文中「シヤモ住家」等で、イシカリ川の川幅も両本でちがう。
 内閣文庫本はオタルナイでのアイヌ踊りが賜物の礼としてあとで行われたとしているが、他本は逆で、踊りを見せてくれた礼として物品を与えたとし(公務日記)、イシカリ川のにつき「江戸諸国え参るの第一番」という記事も他本にみられない。『蝦夷目撃』は五本中、最もはなれた位置にあるように思われる。なお海保本は五月二十二日ヨイチ出立、オショロ泊、二十三日オショロ出立、オタルナイ、イシカリを経てハママシケ泊と読めるが、前後の日程や五月十三日、七月十七日等の記述から、これは筆写時の誤りで、他本と同じ日程とみてよい。
 四本に異同はあるにしても、日程、コース、主要項目の取り上げ方、記述の仕方等をみるかぎり、別種の記録とはいいがたい。あるいは巡回にあたり行先の様子をまとめた資料が配布され、これをもとに別人が見聞を書き加え各々成立したか、四本のほかに原本となるものがあって、その筆写として残ったか、その他の場合など、この成立には不分明な点が少なくない。
 著者については、沙羅書房本奥書きに「此書を綴りしは尾張屋の番頭忠蔵」で、安政元年「雲介を伴ひ蝦夷地へ御供をせし時の紀行」としている。さらに「忠蔵は当所油屋久吾、兼々しれる人にて、かたみに与へ置たるよし」とあるが、他本に著者名はなく、忠蔵久吾の詳細やその当否はわからない。なお函館本の前後に「〓荻窪」と読める丸印があるが、これと著者のかかわりも不明である。
 著者らはイシカリに昼食のため立寄っただけで、短時間の休憩だったから多くの見聞はできなかったであろう。事前に入手したガイドブック類からの転記がイシカリの項の大部分かも知れないが、「此辺の海、遠浅にて砂浜也。見渡せぬ程の平地也」という文は実見の感慨であり、「此処宜敷土地なり」というくだりは、農耕地としての開発を頭に描いた所感であったかも知れない。また、解釈はいろいろあろうが、イシカリ川上流のアイヌを「山人蝦夷」と呼び、穀物を食べず魚類を食料としているという伝聞も注目してよい。