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目賀田帯刀の『延叙歴検真図』

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 『延叙歴検真図』は、上呈も間もないうちに焼失し、安政六年(一八五九)九月に、改めて上呈の命をうけ、翌万延元年三月に再上進された。『延叙歴検真図』は、カラフト・蝦夷地の各場所や海岸、道路などを極彩色で描いた風景図である。山や隣場所の方角・距離も配慮した〝真景図〟で、「絵の形による地図」(高倉新一郎 北海道古地図集成)といえる。原図はいますべてが残っているわけではないが、『北海道歴検図』(折本、二八冊)として同じ目賀田帯刀による再描本が、全冊伝わっている。これは帯刀が、明治二年(一八六九)に開拓使御用掛となり、その時に下命をうけ、四年に完成したものである。ここには、イシカリ場所の図はないが、千歳山道の図が描かれているので、それを紹介しよう。
 千歳山道の図は、①ホシホキ、②ホシホキ(其二)、③ハツシヤブ川、④ハツシヤブ、⑤トエヒラ、⑥シママツフ、⑦シママツフ坂路、⑧イサリ川などからなっている。②には、小休所・役宅・稲荷社・橋、③には橋・家二軒、④には小休所・家二軒、⑤には橋・通行家(四軒の家)が描かれている。いずれも彩色が豊かで、山容・原野・河川の様子が細密かつ克明に記されており、当時の様子を彷彿(ほうふつ)させるものがある。しかし、千歳山道の図には種々の問題がある。というのは、安政五年(一八五八)にここを通った松浦武四郎の『新道日誌』(丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌)、箱館奉行村垣範正『公務日記』などと比較した場合、千歳山道の図の描写が、あまりにも実状とのくい違いがみられるからである。
 まず第一に、⑤トエヒラの図(写真3)をみてもわかるように、豊平川の大きな流れがここでは小川にしか描かれておらず、しかも橋がかかっている。『新道日誌』によると、ここは丸木舟で渡河しており、豊平橋が架橋されるのは明治四年(一八七一)である。第二に、②ホシホキには役宅が描かれているが、ここに役宅がおかれた形跡はない。在住宅を役宅と誤認した可能性もあるが、少なくとも当時、在住宅は四軒が存在した。なお、小休所は安政五年に設置されたことは、『公務日記』(安政五年八月六日条)でも確認できる。第三に、④ハツシヤブ(写真4)に小休所が描かれているが、ここはベツカウシとも呼ばれ、番所とともにハッサム川(現在の琴似発寒川)の左岸部に位置していた。これに対し図では、小休所は平原中に所在しており、川とは隔たった位置にある。また③、④は同一の場所のはずであるが別場所のように描かれているのも不審である。以上の三点の理由により、千歳山道の図は想像図であり、実際の風景とはいえないのである。
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写真-3 トエヒラ
目賀田帯刀 北海道歴検図 北海道大学附属図書館蔵
 
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写真-4 ハツシヤブ
目賀田帯刀 北海道歴検図 北海道大学附属図書館蔵