① | イシカリ川エベツフトより上川筋の場所を見立て、漁業出稼をすること。すなわち新漁場の開発権利を得た。反面しなければならない責務を負った。 |
② | 追々、イシカリ川筋からルルモツペ(留萌)へ通じる新道を開くための調査を行い箱館奉行へ報告すること。急々ではないが調査だけでなく、切り開きしなさいということ。 |
右の用務を遂行するために次の特権を得たが、③はあくまでも①②にともなうものだったらしく、現実には行使しえなかったらしい。 | |
③ | 労働力として役立つアイヌ一五〇人ほどを差配する権限。但しその「撫育」をすること。 |
④ | エベツフトより下流部に漁場を割り当てられ、鮭引網を行うこと。詳しくは第三節に述べるが、網持出稼人となり、この利益を①②に振り向けるよう見込まれ、⑤の役手当を含めた処置。 |
⑤ | 浜名主。安政五年六月二十日に命を受けた。この仕事は「出稼の者等、近々百姓に取立候役の由」(生田目氏日記)といわれ、役務は藩政下の町役人同様であった。しかし、旧請負人阿部屋は本陣の名でイシカリの町役人的立場にあったから、二人の力関係が複雑だった。文久二年まではこの役を勤めている。 |
⑥ | 湊案内。安政五年(六年ともあり)八月に命を受け⑤と同じく文久二年まで勤めた。イシカリ川口に出入りする船の世話と取締りをかね、附船小宿(荷物を売買する問屋の補助)の業務も含まれた。風雨のため難破した船の救助に要する人夫雇銭はイシカリ役所が負担した。 |
以上の用務は在来の場所請負人が持った強大な権限を彷彿させる。もし①が軌道にのれば、現在の上川、空知両支庁管内全域を勝右衛門は掌中におさめることになり、その面積は一万六四〇〇平方キロメートルにおよび、北海道の約二割、水戸藩のあった茨城県の二・七倍にあたる。さらに②によって留萌支庁管内に勢力を伸ばし、⑤⑥の立場から石狩支庁管内で住民代表として重きをなしえたはずである。現実は④に主力をそそぎ、これさえ成功への道程をたどり得なかったのだが。