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共同体意識の成長

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 住人の集会の場として、毎年八月のはじめ、鮭漁を目前にして大寄合がもたれた。改革初年は網持出稼人だけの集会だったが、のちに広く永住人出稼人の参加が認められた。内容は鮭漁のルールをはじめ役鮭のきまり等漁業のすすめ方が中心で、それに町内の生活規則などがつけ加えられ、協議というより役所からの指示事項が多かったと思われる。その結果が〝石狩漁場条目〟として住人に達せられ、町づくりの規範となった。こうした住人の生産と生活の用務を直接担当したのは改役所(のちに漁場改会所という)であるが、イシカリ役所には万延元年(一八六〇)六月、市中取締掛が置かれた。
 このように人別帳ができ、まがりなりにも年貢を納め夫役を負担した永住出稼人を、百姓と呼ぶにはいたらなかったらしい。とはいえ住人の組織化は着実に進展したし、地域住人としての連帯感は高まっていった。たとえば文久三年阿部屋が本陣を返上し、イシカリの町は混乱、衰微に向かいそうになると、困難をのりきり景気回復のため住人は共同組織を結んで対処しようとした。「阿部屋伝治郎返上の引場、不残石狩永住の村網に被仰付候はゝ、御通行取扱も市中一同にて相勤可申」(五十嵐勝右衛門文書の内 函館日記留)と言い、組頭を中心に具体的な運営仕法を作成し、イシカリ役所に対し住人共同体への委譲を強く働きかけたのである。翌年の阿部屋再任により、この住人共同事業は陽の目を見なかったとはいえ、安政五年にはじまる出稼へのイシカリ解放は、確実に市民社会を形成しえたことを物語っている。
 後日、松浦武四郎はイシカリについて「安政五午年、請負人を廃し直場所村並に仕候」(郡名の儀に付申上候書付)と書いている。とはいえ、元治元年の山越内場所、慶応元年の小樽内場所と同様には村並と呼ばれたことがなく、直場所と言うのにも一部にわだかまりがあったほどである(市史六二頁)。場所請負制を廃止し幕府による直捌制がとられながら、村並とされなかった蝦夷地における特殊な住人支配体制については、他場所との比較検討によって、今後明らかにしていかなければならない。