イシカリ改革前、すでに蝦夷地と那珂湊を廻船が度々往来していたことはよく知られ、那珂湊辰の口の廻船問屋(磯野)四方之丞の手船三艘が、江戸と箱館の公的物品を無償で運んだ話は有名である。那珂湊入津の松前蝦夷地からの廻船を〝親船〟といい、磯野のほか大黒屋(木内)、浜屋(大内)、蛭子屋(近藤)、南部屋(桜井)、梅屋(照沼)等の豪商たちが活躍した。このうち南部屋の『諸国御客面附年始幷歳暮留』には、同家と商取引のある一五九人の名を載せるが、うち四七人が北海道関係者で、栖原、伊達、山田ら問屋請負人が一三、蝦夷地出産物を運ぶ廻船(船主、船頭)が三四にのぼり、両地が深いつながりを保っていたことをうかがわせる。イシカリ改革の年、那珂湊へ入津の南部屋客船一七艘の内(住吉屋の竜徳丸は二度入津したが一艘にかぞえた)、箱館松前江差船籍は一〇艘で、これらが蝦夷地産物を運んだことは疑いない。あとの七艘の内、積荷の出産地がわかり、それが蝦夷地の産物である船が四艘あるから、この年の南部屋客船のうち一四艘が蝦夷地と何らかのかかわりを持ったことになる。勝右衛門のイシカリ進出を那珂湊でささえた商人は南部屋のほか蛭子屋と梅屋で、中でも梅屋(照沼)権十郎、同重右衛門は金銭の融通から仕込み、船や人の手配まで、こまごまと世話することになった。その家主を人は〝梅権〟と呼び、常州野州に彼の名が知られるのは、あまり古いことではないようで、大店のもとで苦業のすえ出世した新興の富商である。
春、直場所イシカリに生活生産の物資を那珂湊から送り込み、秋にイシカリの鮭を水戸や江戸に運んだ船で、よく知られているのが稲荷丸である。船主は越後国新潟の石崎弥兵衛といい、大中小三艘の同名船があった。大は帆が二〇反、中一八反、小一七反であるから、当時〝ベザイ船〟と呼ばれた荷船としては一般的な大きさといえる。当初は那珂湊に寄港する買積船(船主や船頭が自ら商品を仕入れて輸送販売する)だったと思われるが、那珂湊の商況が活発になると船の冬囲いを那珂湊で行い、乗組員は新潟と那珂湊を陸路往復した。さらに、文久元年(一八六一)これを那珂湊の廻船問屋南部屋と油屋に売り渡し、名実ともに那珂湊を基地とする廻船になった。
写真-9 現今の那珂湊港
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写真-10 稲荷丸(船絵馬 江差町指定文化財) |